文芸処・椋岡屋

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作品集

★白の花束

 輝き透き通った青空の下、バス停に停車した尼崎市営バスは、自分が降りたのを確認するとすぐに発車した。他に降車客はいなかったらしい。 小杉希望のぞみは鞄の中から携帯電話を取りだし、モバイルサイトのメニューから地図サイトを選択する。

「今いるのがここだから、バックして最初の信号を左に曲がると、線路沿いに着くのね」

 希望の手にはいつも使っている鞄と花束が入った紙袋がある。目指すのは、3年前、乗務の合間に心を痛めながらテレビで見ていたあの地。 あの日から今日までの間、訪れた事は無い。翌日にある、高校時代の同級生の結婚式に出席しなければ、おそらく来ることは無かっただろう。 同じ鉄道員、運転士として、あの地に訪れるのはまだ早い……その思いが現場に行くことをためらわせていたのかもしれない。

 示された地図の通りに歩く。空の青さは3年前の今日と変わらず、民家が並び、小学校もある。東京でも普通に見られる光景に、 本当にこの道で合っているのかと不安になる。

 5分も歩くことなく、高架の線路に突き当たる。間違いなく福知山線だが、あの現場は高架ではない。希望は左右を見渡す。 左手に見えたマンションで、自分の進む道が容易に判断出来た。同時に、希望の心はきつく縛り付けられる。

 進行方向を左に変え、線路に沿って歩く。踏切前の町工場。あの事故が発生した時に操業を停止し、従業員総出で救出作業を行った工場とは ここなのだろうか。線路沿いの道路にはテレビ局のクルーが待機している。視線をマンションに向けると、線路に沿って白い囲いがされ、 踏切には青い作業服を着た係員らしき人たちが交通整理を行っていた。希望の心は更に痛み、苦しさが増す。

「献花に来たのですが、どこに行けばいいのでしょうか?」

 希望は心の苦しさを悟られないようにしながらも、堅い表情で係員に尋ねる。踏切を渡ると左手に入口があるので、 あとはそのまま進んで下さい……係員は丁寧に告げ、希望に対して一礼をする。

「ありがとうございます」

 一礼した希望は、言われた通りに踏切を渡る。喪服姿の人々が、希望に対して一礼をする。3年経ったのに、いやまだ3年しか経っていないから、 事故を真摯に受け止め、追悼に来た人たちに敬意を示しているのだろう。

 係員の言われた通りに道を進むと、献花台があり、僧侶が経を唱えている。鞄を預かってもらい、紙袋から取り出した白の花束を献花台に捧げる。 昨晩のうちから大勢の人たちが献花に来たのだろう、献花台には花が高く積まれている。

 花を手向けた後、焼香をし、手を合わせる。

「どうか、安らかにお眠り下さい」

 事故が起きた時から、運転士としていろいろ考え、時には仲間と論議したこともある。今日も朝から、事故でこの世を去った人々に、 何を伝えればいいのか考えてきた。しかし、いざ現場に来たところで出て来たのは、ただ「安らかに」その言葉だけだった。もっと伝える事はあるのに、 3年前の悲惨な状態を思い出しただけで、言葉が出ない。鉄道員、そして運転士である自分が出来ること、これから先、心に誓って守っていくこと……どんな職種であっても、 鉄道員である以上、お客様の生命を預かり、目的地まで安全に運ぶこと。それらを亡くなった106名に語り、そして、誓うはずだったのに。

 深く礼をして、希望は献花台を離れ、帰路の通路を歩く。衝突した場所に建てられた観音様にも焼香台があり、そこでも焼香して手を合わせ、祈りを捧げた。

 白の囲いが僅かに低くなっている部分から、衝突の傷跡が垣間見え、目にした途端、希望の瞳には涙が溢れた。

 助けを待つ間もなくこの世を去った人たちは、どのような思いを残していったのだろう。いつも乗っている人、たまたまその日乗っていた人。 どのような立場で乗っても、誰もが、鉄道は安全という事を信じていたはずだ。その信頼を裏切ったのは、紛れもなく運転士。 その運転士も亡くなっては、事の真相を追求することが出来ない。余裕のないダイヤ、ミスを起こして待っているのは懲罰的な日勤教育……会社側の安全に対する姿勢に、 疑問の声は未だに消えない。

 会社こそ違えど、希望も運転士。乗務の時には常に安全運転という責務を背負う。事故なく乗務が終了しても、誰からも褒められる訳ではなく、 それが当たり前の事とされる。自分としては、その当たり前の責務に耐えられなくなった時が、鉄道員を辞める時だと思っている。もっとも、 その前に監督する側に移り、現業から離れるかもしれないが、監督する側になれば、より一層の責任がのし掛かるのは、助役から副区長、更に区長を務めた父親を見れば一目瞭然だ。

 同時に、自分が事故列車と同じ状況下に置かれた時、自分はどうするのだろうかと考える。安全を取るか、自分の立場を取るか。 希望の会社では、自然遅延における罰則はないので、安全重視で運転するが、罰則があれば、自分の立場を取ったかもしれない。その事を考えると、 自分に限らず、同業者に事故列車の運転士を責める資格はないだろう。

 ただ言えるのは、鉄道員は憧れだけでなるものではなく、乗客の生命を預かる故に、安全運転を担う適性も問われ、その適性に合わなければ、 その道を進むことが出来ないという事……。


 尼崎駅ゆきのシャトルバスがある事を知り、希望はマイクロバスに乗り込むと、発車までの間、亡くなった人たちに伝えきれなかった事をもう一度考える。 一度失った信頼を取り戻す事は、かなり難しい。特に鉄道の安全神話が崩れた今、あらゆるミスがあってはならない。

 今日、現場に来た事で、安全運転の責任を更に感じ、そして、その責任を果たすために、さらなる努力を重ねる事を誓う。

「それでは発車お願いします」

 シャトルバス乗り場担当の係員が、シャトルバスの運転手に指示を出す。運転手はドアを閉め、静かに発車する。

 次にここに来るときはいつだろう。たとえ何年先になっても、福知山線脱線事故は運転士として、鉄道員として忘れてはならない。 誰にも思いを託す間もなくこの世を去った人たちのためにも、尊い命を無駄にすることは出来ない。流れる車窓を目にやりつつ、 希望はテレビで見ていた3年前の光景と、今日実際に見た光景を思い浮かべる。

 尼崎駅に到着し、電車に乗るために改札口へ向かっていると、記帳台に視線が行く。希望は足を止め、記帳台の前に座る。そして、 手渡された一枚の短冊に、今日の思いを綴っていく。


「亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げると共に、運転士として、3年前の悲劇を一生忘れず、安全運転に命を捧げます  小杉希望」