文芸処・椋岡屋 作品集
★春色の運命の糸
〜第2章〜
 四月になり、爛漫に咲き誇る桜をゆっくり愛でる暇もなく過ぎてゆき、駅を 賑わしていた新入生たちもようやく落ち着き、日常の駅に戻りつつあった。
 ある早朝日勤の日、海里は通勤の為に乗っていた電車を降り、事務室に入ろうとした時、 改札前にある売店の前で、中年女性の店員とうら若き女性と立ち話をしているのが目に入った。
(話し好きのおばちゃんだからなぁ。あの犬が気に入ったのかな?)
 心の中で呟きながら、事務室のドアを開けようと手を掛けた時、海里は売店の店員と 話している相手が、かの女性、宏美であることに気がついた。一ヶ月前に見た時に 彼女が抱いていた子犬の大きさと特徴が、海里の記憶に強く焼き付いていた事が、 彼女のことを思い出させるのに手間取らせた。
「あっ」
 海里は宏美に声を掛けようと、後ろに一歩足を踏み出し、売店のほうに視線を向けた。 しかし、宏美は海里に気が付くことなく、売店を後にして踏切を渡ろうとしているところだった。 宏美の姿が完全に視界から消えると、海里はため息をつき、事務室の中に入った。
「なんか珍しい車両でもいたんですか?」
 朝の挨拶に続けて、出札窓口に座っていた吉野が不思議そうな顔をしながら、 海里に問いかけてきた。
「車両は別に面白くもなかったけど、この間の女性が売店のおばちゃんと立ち話をして いたから、つい」
 話の分かるやつがいて良かったと言わんばかりに、海里は隠すことなく吉野の問いに答え、 更衣室のほうへ足を進めた。制服に着替えながら、なぜ今日になって彼女を見ることが 出来たかを頻りに考えた。今日と同じ早朝日勤は何度もあったし、明け番の時に見ることが あってもおかしくないのに…今まで見過ごしていたのだろうか。考えれば考えるほど、 海里は自分が鈍くさい人間のような気がしてならなかった。
 もどかしさを感じながら、着替え終わった海里は再び出札窓口に向かった。朝ラッシュの 時間まで若干ながら時間がある。海里は今考えていたことを、吉野に話した。三年も先輩 である海里の悩みに、吉野も難しい顔をしながら腕を組んで考えた。
「前に見た時って、子犬を抱いていたんですよね?」
 しばしの沈黙の後に出てきた吉野の言葉に、海里は訝しげにうなずいた。
「先輩が見た時って、生まれてまだ一、二ヶ月の子犬だったのかも知れませんよ。ワクチンを 接種するまでは、あまり外に出さないんです」
 吉野は犬を飼って得た知識を、ざっと海里に聞かせた。海里の家では動物を飼ったことがなく、 聞いたことすべてが驚きだった。
「ワクチン接種を終えて、外への散歩を始めたばかりかも知れないですよ。駅前が散歩コースに 含まれていたら、今後も見かける可能性大ですよ」
 海里は、吉野の言葉に希望を見いだした。駅から少し歩けば、多摩川の河川敷に出られる。 散歩や運動に適した場所でもあり、定期的に訪れる可能性は非常に高い。散歩の時間帯さえ 掴めれば、彼女に会って声を掛けられるかもしれない。諦め気味だった恋心が、次第に現実に 近づいている手応えを、海里は感じられずにはいられなかった。
 海里の観察は続いた。今まで女性ばかりに気を取られていたのを改め、子犬を接点に近づく ことを考えて、駅前を通る人々を見つめていた。
 チャンスは思った以上に早く訪れた。次の泊まり勤務の明け番で出札窓口に座っていた海里は、 生あくびをかみしめながら、回数券のチェックをしていたが、ふと顔を上げると、窓越しに 宏美が売店の店員と立ち話をしているのが見えた。
(吉野が言っていた通りだ)
 海里は動かしていた手を止めると、彼女たちの様子を窓越しにじっと見つめた。売店の 店員とはすっかり顔なじみになっているのか、子犬を抱き上げる宏美には笑みがこぼれていた。
(そうか、子犬と仲良くなる手があったんだ)
 子犬を介しての交流を垣間見た海里は、少しでも子犬に近づきたいと考えた。止めていた手を 動かし、チェックの続きに取りかかろうとした時、宏美が売店から離れて行くのが見えた。 海里はとっさに立ち上がると、制服のポケットに小銭がある事を確認し、速攻で売店に駆け込んだ。 売店横の自動販売機で缶コーヒーを買うと、開店準備をしている店員、浜村におそるおそる声を掛けた。
「おばちゃん、さっきの人と知り合いですか?」
 浜村は一瞬誰の事を聞かれたのか分からない表情を見せたが、すぐに宏美の事だと分かると、 満面の笑みをこぼした。
「さっきの子の事ね。一週間ぐらい前から子犬の散歩でここの前を通るから、声掛けてみたの。 今時の子にしては、とてもはきはきしていて好感持てるわよ。」
 明快で気さくな性格を持つ浜村は、海里が宏美に好意を寄せていると思ったのか、肘で海里を 軽く突いた。
「それもだけど…子犬のことが気になって」
 海里は少し戸惑いながら、主たる目的が子犬であることを告げた。浜村は予想がはずれて やや残念そうな顔をしながら、それでも勿体ぶる事なく、
「あの子犬、メスでカレンちゃんと言うんだって」
 手際よく新聞を並べながら答えた。
「その子犬、どの種類か分かります?」
 聞くだけ野暮かもしれない、との思いからか、自然に言葉が丁寧になっている自分に、 海里は苦笑いしながらも、駄目もとで浜村に聞いてみた。
「ほら、何だっけ、盲導犬とか介助犬で見かける犬。耳がたれてて…そうそう、ラブラドールって 言っていたわよ。とても可愛いわよ」
「ラブラドール、ですか」
 納得したように海里はうなずいてみせたが、実際に近くで見たわけではなく、ラブラドールの 子犬がどんな容姿であり、性質であるのか分からない。だが、犬の種類さえ分かれば、 後は調べようがつく。自分なりに納得したところで、浜村に礼を言うと、海里は足早に 事務室に戻り、買った缶コーヒーを一気に飲み干すと、仕事に戻った。