★一輪の花(初版)
〜第1章〜
秋の終わりを告げる冷たい雨が、瑠璃色に染まった空から降りしきり、
大森中央駅のホームを濡らし、乗客は上着の襟を立てて、寒さをしのいでいる。
これから多摩川高速鉄道海岸線の上り各駅停車の乗務に就く、落合孝介は
透明のビニール傘を差して、乗務する電車の到着を、細い体をすぼめて待った。
落合は、八年前に多摩川高速鉄道に入社し、駅務、車掌を経て、難関な
運転士採用試験に合格し、乗務を始めて二年と、まだ新米の運転士である。
雨の日の乗務には、いつも緊張がつきまとい、オーバーランを恐れていた。
定刻通り、上り各駅停車の電車が滑り込むように到着し、前乗務の運転士と
簡単な引き継ぎをして、落合は乗務員室に入った。
「今日も雨かぁ。滑らなきゃいいけどなぁ」
落合は各所の点検をしながら、独り言を呟いた。点検を終えると、軽く溜息を
ついてから、座席に座った。
点検をしている間にも、先行の急行電車は発車し、後続の各駅停車も、信号が
変われば発車となる。落合は深呼吸をすると、座席に座り直して、車掌からの
発車合図を受けると、大森中央駅を後にした。
冷たい秋雨がフロントガラスを叩きつけ、否応がなしに運転に集中させられる。
少しでもブレーキを掛けるタイミングを間違えると、停車時にオーバーランして
しまう事は、見習い時代に、師匠と呼んでいる教導運転士から、みっちりと指導
を受けている。
次の停車駅、南大井駅の停車位置目標までの距離を絶えず計算し、ここぞと
いう位置でブレーキを掛けた。雨で多少滑走しているのは圧力計のメーターで
分かっていたが、どうにか停車位置に停車する事が出来た。
落合はひとまず無事に停車出来た事にほっとして、何気なく対向式の下り
ホームを見た。南大井駅は微妙にカーブしているため、ホーム監視用のモニターが
ホーム先端に設置されている。落合はモニターの付け根の所に、一輪の花が
置かれているのに目がいった。
(ピンクの花かぁ。なぜあんな所に)
花の種類を見ようとした時、無情にも、車掌からの発車合図があり、落合は
心残りのまま、ブレーキを緩め、電車を発車させた。
各駅に停車する度に、また優等列車の待避のための停車の度に、落合は
南大井駅のホームに手向けられた花の事が気になった。
だが、折り返し下り各駅停車で戻ってきた時には、始末された後なのか、
花は既になく、落合には、結局あの花が何だったのか分からないまま、
乗務交代駅の大森中央駅に到着した。
一週間後、大森車掌区の月島和雄は、往路上り急行電車、復路下り各駅停車の
乗務に就いていた。急行は南大井駅通過だが、後部確認のため、乗務員室で去りゆく
ホームを注視していた。
外は冬の訪れを告げる冷たい雨が降っており、時折ワイパーを作動させないと、
雨の滴で外への視界が遮られる。 二、三回ワイパーを作動させたとき、月島は
南大井の下りホーム三田寄りにある、ホーム監視モニターの付け根にピンクの花が
置かれているのを目撃した。しかし、何の花か判断するには速度が早過ぎた。
月島は花のことには特に関心が無かったが、復路の下り各駅停車で、南大井駅に
着いた時にも、まだ花が置かれたままであり、さすがに気になって、モニターの
付け根に手向けられた花に視線を向けた。
「ピンクのチューリップかぁ」
チューリップは午前中に手向けられたのか、冷たい雨に打たれて幾粒もの滴が
花びらと葉に付いて輝いていた。
月島は、一度は花に手を伸ばそうとしたが、
(駅員が始末してくれるだろう)
と勝手に思い込み、発車ベルを鳴らすと、ドアを閉め、運転士へ発車合図を送った。
その後も、月島は三田方面への乗務が続いたが、特に花には興味を示さず、
仕事に集中して、乗務をこなした。
小春日和の昼下がり、落合はこの日も海岸線上り各駅停車の乗務に就いていた。
最初に花を見て以来、雨の日にピンクの花がホーム監視モニターの付け根に
手向けられているのは、何度となく乗務して分かってきたが、今日は晴れており、
何も無いだろうとタカをくくっていた。
ところが、南大井に着いて、下りホームの方に目を向けると、いつもと同じ位置に、
ピンクの花が手向けられているではないか。
落合は不審に思いながらも、発車合図が来るまで、下りホームの花に視線を送った。
しかし、視線を送れども、何の花までかは分からず、なぜ雨でもないのに花が
手向けられているのか、という疑問が増えた。
一方の月島も、落合とは別の電車で、三田方面の乗務に就いていた。先日まで
続いた雨の度に、南大井に花が手向けられていることに、落合程ではないにしろ、
心の中で引っかかるものがあった。それだけに、小春日和の晴れた今日、南大井の
ホームに花が手向けられているのを目撃して、驚きを隠せなかった。
自分以外の乗務員で、このことに気が付いている人はいないだろうかと考えたが、
月島以外の同期は駅に残っているか、運転士になっているかのどちらかで、
車掌として残っているのは、多摩川本線を担当する多摩川乗務区の志村だけだった。
(大森電車区には落合がいるけど、あいつは気付きそうにないし、若王子は
運輸係だし。誰も知らないか)
先輩や後輩に聞くという事が頭から抜けていた月島は、親しい同期の顔を
思い浮かべては、消去法で花の真相を知りそうな人を捜した。だが、結局、
思い当たる伏はなく、首を傾げながら、南大井を後にした。
かくして、ピンクの花は雨の日か特定の曜日に置かれているという法則を、
落合、月島共に薄々と気付き始めた。
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