文芸処・椋岡屋 作品集
★線路よ輝け、未来へ
明石の阪神淡路大震災
 その日、始発から三本目の電車の担当で、四時過ぎに起きて、 出庫点検をしていました。冬で、まだ夜も明けていないとは言え、 何かしらの生物反応を感じるのものなのですが、その日は不気味な ぐらい静まりかえり、大の大人の癖して、怖じ気付いていました。
 出庫点検を終えて、点呼も受けて、定刻通りに電車を発車させました。 何分発だったかは、度重なるダイヤ改正で失念しましたが、5時20分 過ぎていたのは間違いありません。
 眠気防止に、乗務員扉の窓を開けて運転していました。やがて、 電車は鷹取駅に到着し、定時に発車しました。走って程なく、突然、 電車の走行音とは異なる、地鳴りのような轟音が耳に聞こえました。 何だろう? そう思う間も与えられる事無く、電車が激しく揺れました。 直ちに、非常ブレーキを掛け、パンタグラフも下げて、防護無線 (付近を走行する列車に異常を知らせる無線)を発報しました。 激しい揺れはどれだけ続いたのか、振り落とされない様に運転台に しがみつくのが精一杯で、よく覚えていません。その間、線路は波打ち、 稲妻の様な火花が光り、生きた心地がしませんでした。
 やっと揺れが収まったところで、列車防護(運行している列車や 後続列車と衝突しないための処置)をして、輸送指令に連絡を取ったの ですが、通じませんでした。今思えば、大阪の方もかなり揺れていたので、 指令自体がパニック状態だったのかも知れません。
 ともかく、車内を巡回して、お客様に怪我がないか聞き、お客様全員の 無事を確認し、車掌にその旨伝えて、車内の事は車掌に委ねました。 その後、何度となく輸送指令に連絡を試みたのですが、やはり通じず、 線路脇の鉄電(鉄道電話)に向かおうと電車から降りました。 その頃には夜も明けて、明るみ出しました。
 ふと、前の方を見ると、電車の数メートル先に巨大な照明塔が倒れて 線路をふさぎ、また架線柱は傾き、架線も切れていました。非常ブレーキを 掛けるのが一秒でも遅かったら、照明塔の直撃を受けているところでした。 恐怖に怯えながら、私は線路脇を歩きました。その時はまだ何が起こった のか分からなかったのですが、
「兄ちゃん、さっきはえらい地震やったなぁ」
 沿線住民の方から声を掛けられて、初めて、さっきの激しい揺れが 地震だった事を知りました。
 鉄電でやっと指令と連絡がつき、地震の被害を至る所で受けて、 とても運転出来る状態ではない事を知り、鷹取駅までお客様を誘導する 事になり、急いで電車に戻り、車掌と二人でお客様を鷹取駅まで誘導しました。
 その後は、脱線復旧班が来るのを待っていたのですが、待っている間にも、 沿線の住宅から火の手が上がり、見る見るうちに火の手は広がり、 大火災になりました。
 消防車や救急車が頻繁に往来しているのですが、特に消防車は消火栓が 使えないのか、成すすべも無かった様です。沿線住民の方は、自分の家が 焼けていくのを呆然と見つめていましたが、私も、着の身着のままで 逃げ出して火災を見つめる方たちを、ただ見る事しか出来ず、 もどかしさを感じました。
 脱線復旧班は昼過ぎてから来ましたが、火の手が線路際まで迫って 危険なため、結局、作業はしないまま、電車区に戻る事になりました。 戻ると言っても、当然、電車は動いていませんから、迎えの車を鷹取駅で 待ちました。その間にも余震は続き、火災も更に駅や鷹取工場にまで 到来しようかという勢いでした。その間聞いた緊急車両のサイレン、 上空を飛ぶヘリコプターの音は今でも耳に残っています。
 やがて、迎えの車が来て、先の線区に行っていた同僚と共に、 電車区へ向かいました。道路にはビルやマンションが倒れて行く手を阻み、 それが渋滞を酷くさせていました。朝起きたのが4時過ぎでしたから、 夕方を過ぎたあたりから疲れが出てきて、夜にはピークを迎えていました。 正直、何時に帰区したのか覚えていません。真夜中なのは間違いないのですが。
 職場で点呼を受け終えてから、まず家に電話して、自分の無事を 伝えると共に、家族の無事を確認しました。幸い、家は潰れることなく、 食器棚の中の物や、CDラックのCDが散乱している程度で済んだ様です。
 地震が起きた翌日は公休でしたが、出勤出来ない社員がいたため人手が足りず、 そのまま居残り、助役と共に安否の確認をしていました。
 私は車があるので、職場へは車で通い、職場で待機する日が続きましたが、 確か、1月23日に代行バスが走る様になってからは、バス待ちの お客様の列を整理する事になりました。電車が動いた事で、心ばかりか お客様の表情の暗さが少し消えた様に思いました。
 バス代行は、関西各社はもちろん、遠くはJR九州からも応援に来ていました。 とは言え、輸送力は電車に比べると遥かに劣ります。朝夕ラッシュ時には、 バスを待つ乗客の列は何百メートルに及ぶ事が多々ありました。 それでもお客様は誰一人、文句を言わないばかりか、「早う復旧する様、 応援しとるで。頑張りな」とお声を掛けて頂く事もありました。その度に 寒さも吹き飛び、より分かりやすい案内をしようと心掛けました。
 不通区間は日ごとに短くなって行くのですが、復旧して初めて乗るとき、 まだ安定していない路盤に加え、微妙に歪んでいる軌道に、本当に通って いいのかと思いながら、徐行して通りました。同時に、24時間体制で 復旧に全力を注ぐ保線や電力、設備の社員に頭の上がらない思いで一杯でした。
 不通区間が灘〜住吉となった時に出会ったのが、掲示板常連のジョイ君こと、 藤田君でした。代行バスの乗車待ちの最後尾にいたとき、彼がやってきました。 彼の手にはクラリネットのケースがありました。私もクラリネットを 吹いているので、つい嬉しくて、私の方から声を掛けました。
 藤田君の話では、学校がテスト期間に入って部活がないので、家に楽器を 持って帰って練習する、それも被災した人たちの心の癒しになる様に、 エチュードを中心に練習する、との事でした。自分の事のみならず、 周りの事も考えて行動する彼に、今の若者も捨てたものではないなと思いました。
 代行バスの整列担当は、一週間に一度ぐらいのペースで回ってきましたが、 何故か、藤田君とはよく会いました。全線復旧の前日もそうでした。 彼は私の姿を見つけるなり、わざわざ並んでいた列から抜け出して、 私の所に来ました。
「明石さん、明日、いよいよ全線復旧ですね。ここまで辿り着けたのも、 鉄道会社の皆さんのお陰です。今まで寒い中、本当にお疲れさまでした。 そして、ありがとうございました」
 深々と礼をする彼の瞳には光るものがありました。
「いえいえ、藤田君を始めとするお客様のご理解があってこそ、復旧に 辿り着くことが出来ました。今までご迷惑をお掛け致しました。どうぞ、 これからもご愛顧の程、よろしくお願いします」
 他のお客様の手前上、ここまで言うのが精一杯でしたが、今までの苦労が 吹き飛びました。このまま疎遠になるのが惜しくて、胸ポケットから 乗務員手帳を取り出すと、メモ欄に自分の連絡先を記し、彼に手渡しました。 彼は意外に思えたのか、何度も礼を述べると、最後尾に並びに行きました。
 翌日、私はたっての希望で、初電を運転することになっていました。灘〜住吉の 徐行指示を乗務員手帳に書き記しながら、早くも目頭が熱くなりました。 誰もが待ち望んでいた全線復旧。それが現実になる事を思うと、嬉しさと同時に 重い責任を感じました。
 営業運転が始まると、お客様が待ちに待った表情で、電車を出迎えているのが 伝わりました。特に灘に到着した時には、拍手をするお客様もいらっしゃいました。
 灘〜住吉は指定された速度でゆっくり徐行しながら走りました。私は時々横を 向きながら、「皆さんのお陰で復旧出来る事が出来ました。どうもありがとう」と 心の中で叫んでいました。もちろん、日夜問わず復旧作業に携わった全ての人にも お礼の言葉は忘れておりません。
 灘、六甲道。この二駅から乗るお客様の顔は、皆、笑顔で満ちあふれていました。 「あぁ、皆、鉄道の復旧を心待ちにしていたんだなぁ」、そう思った瞬間でした。 そして、鉄道の復旧が、阪神の復興に繋がる事を願わずにはいられませんでした。
 鉄道が復旧した事で、代行バスの運転は終了しました。代行バスの運転に伴う お客様へのご案内はもちろん、鉄道が信頼されている輸送機関である事など、 忘れかけてきたものを再び思い出す事が出来たのも、地震があったからかも しれません。お客様の笑顔をいつまでも運ぼう。そう決心した私は、特急乗務の道を 勧められても、緩行線に残り、今日に至っています。
 阪神の街並みは、震災当初は崩壊した家屋、ブルーシートを屋根に被せている 家屋が目立ちましたが、鉄道の不通区間が短くなるに連れて、更地が増えてきました。 しかし、その更地に家などが建ったのは、随分後になってからでした。 不景気が復興を妨げている事をひしひしと感じました。
 今、街は見た目復興を成し遂げた様に見えますが、人の心の中は、まだ 1995.1.17 5:46のままでいるのかも知れません。誰もが表に出さないだけで、 本当は思いっきり泣きたいのかも知れません。忘れてはならないけど、忘れたい。 そんな思いを被災した人々は抱いているのかもしれません。私自身、 あの日と同じ行路を担当した日は、震災の事がフラッシュバックしましたし、 それから逃れるために、仕事に打ち込み、忘れようとしていましたから。
 でも、内に秘めた想いを外に出す事で、震災で負った心の傷と上手く 付き合う事が必要なのではと、「おほなゐ」を聴いた時に感じました。 何かの機会があれば、震災を知らない人たちに語り継ぐ事が出来ればと思います。