文芸処・椋岡屋 作品集
★線路よ輝け、未来へ
藤田の阪神淡路大震災(2)
 それから数日後、所属している吹奏楽部の顧問の先生から連絡があり、 学校の部室に行く事になりました。
 JRが代行バスを運転開始する、との事だったので、自転車で芦屋駅に 行きました。至る所で家屋が倒壊しており、自分の家が潰れなかった事が いかに奇跡だったのかと思うと、胸がつまる思いでした。
 芦屋駅には、代行バスを待つ人で列が何十メートルにもなっていました。 JRの社員さんたちも、今日が初めてという事も手伝って、案内に 翻弄されていました。ここではどれだけ待ったのでしょうか。でも、 不思議と待つ事に対する疲れや、案内の不徹底に対する怒りなど、 ありませんでした。バスでも移動出来る事に、誰もがささやかな喜びを 感じていたからだと思います。
 やっとバスに乗れたところで、道路は渋滞しており、当然の事ながら、 時刻通りには運転出来ません。被災した方たちを配慮したかの様な、 ゆっくりとした走りのバスの中で、僕はずっと外を見ていました。 窓から見える光景全てに、息を飲みました。瓦礫の山となった街並みに、 自分の家が倒壊しなかった事が、逆に苦しみにさえ思いました。 僕は二日間だけでしたが、この街の人たちは、今も避難所生活を 送っていると思うと、ここを通る事がとても申し訳ない気持ちで一杯でした。
 やっと到着した三ノ宮の様子は新聞などで見てはいましたが、 実際に目にして、言葉がありませんでした。絶句と言ったほうが 良いかも知れません。ビルが倒れるなんて、映画の世界でしかあり得ないと 思っていたのに、それが目の前で倒れているのですから。三ノ宮のシンボル、 アーチの美しい阪急三宮駅も、無惨な姿をさらけ出し、早期の復旧は 難しいだろうなと思いました。
 三ノ宮から学校までは歩いて行きました。途中、倒れたビルや切れた電線に 注意しながら歩いたので、いつもの倍は掛かったと思います。 時間は掛かる事を想定して、朝早く出たのに、学校に着いたのはお昼でした。
 ともかく、部室に行きました。ここでも揺れが強かったのか、 軽い楽器は棚から落ちていましたし、チューバも場所が変わっていました。 楽譜も散乱していました。棚が作りつけだったのが、これだけの被害に済んだと思いました。
 顧問の先生の指示で、片付けをしているうちに、一人、また一人やってきて、 片付けが終わる頃には、全部員の半分が揃いました。須磨から西に住んでいる 部員は被害が少なかったのか、比較的揃いましたが、学校より東側に住んでいる部員は、 やはり来られなかった様です。でも、部員全員無事であった事に、みんな泣いて喜びました。
 楽器の方はかなりの数が傷んでしまいました。僕の楽器は幸か不幸か、 棚から落ちずにいたので、無傷でした。周りから「お前、相当悪運強いな」 と言われましたが。
 日が暮れないうちに解散となり、今度は学校再開の時に会おうと約束して、 家路につきました。行きと同じ道を辿っていくのですが、灯りの灯らないビル街を 歩いているうちに、これが本当に日本なのか、神戸の街なのかと、 絶望に似た気持ちになりました。三ノ宮の駅に着いた時には、駅の灯りで涙が出てきました。
 帰りのバスは暗闇の中を走り、誰もしゃべらず、静まり返っていました。 ただエンジンの音が響くだけです。
 芦屋に着いてからも、今日見てきた光景を思い出しては、生きている事、 帰る家がある事の幸せを思い、同時に、自分だけこんなに幸せであって良いのだろうかと 思いました。生きる苦しみとはこの事を指すのだろうな、不幸にもこの地震で 亡くなられた方の分も生きるためには、どうすれば良いのだろうか、 と考えながら家に帰りました。いつまで考えても、答えは出ませんでした。
 そんな悶々とした日々を送っていた時に出会ったのが、明石さんでした。 学年末テストで部活が休みになったので、楽器を持って帰った日でした。
「それ、クラリネットですか?」
 代行バス待ちの最後尾に並んだ僕に、明石さんの方から声が掛かりました。
「はい。テスト前で部活出来ないので、家で練習をしようと思いまして」
「テスト前の大切な時期に、時間を取らせてしまい、申し訳ありません」
地震で被害を受けたのは誰もなのに、公共の乗り物というだけで、ひたすら頭を 下げる明石さんが気の毒に思えました。
「駅員さんも大変ですね」
 自然に出た言葉でした。しかし、明石さんは慌てる様に首を横に振り、
「あの、私、駅員ではなくて、運転士です」
そう答えました。
「すみません、失礼しました。でも、どうして運転士さんがここにいるんですか?」
 確かに、明石さんの名札には「運転士」と記されていました。僕は平謝りをすると共に、 疑問に思った事を率直に尋ねました。
「線路が途切れている間は、仕事がないですから」
 明石さんは嫌な顔一つも見せないで、僕の愚問に答えました。 よく考えれば分かる事に、僕は自己嫌悪になりながらも、
「言われてみればそうですよね。運転士さんも大変ですね」
改めて、労いの言葉を掛けました。
「これも良い勉強になりますよ」
 明石さんは控えめに応えました。
「お客様がいらしたので、この辺で失礼します。テスト頑張ってください」
 しばらく立ち話をした後、明石さんはそう言い残して、列の最後尾の方に向かいました。
 ある日突然仕事がなくなり、今までと異なる仕事をする事に、ためらいを感じるのに、 そのためらいを表に出さず、乗客第一に行動する。そのお陰で、自分たちは 当たり前の様に代行バスに乗れる……24時間体制で復旧工事に直接携わっている人たち にはもちろん、陰で支える人たちに、頭が上がらない思いでした。
 明石さんとは、不思議な事に週に一度は会いました。そして、明石さんも 吹奏楽でクラリネットを吹いている事を知り、意気投合しました。今思えば、 思いっきり仕事の邪魔をしていた事になります。反省しております。
 でも、明石さんと出会った事で、自然と鉄道で働く人たちに目がいき、 神戸の復旧の支えになるべく姿を見て、僕もいつまでも悶々としていられないなと 思う様になりました。
 最後まで不通だった住吉〜灘の復旧が4月1日と決まり、代行バスでの通学も 残り僅かになりました。復旧作業の陰の功労者である明石さんにお礼が言いたくて、 代行バスの乗車待ちの列をしている社員さんの中から、明石さんを探しました。 明石さんを見つけたのは、代行バス最終日でした。
 明石さんは列の途中での整理と案内をしていましたので、列から抜け出し、 明石さんの所に行きました。明石さんも僕に気が付き、笑顔で迎えてくれました。
「明日でいよいよ全線復旧ですね。これも明石さんたちの力の賜物です」
「いいえ、お客様のご理解とご協力がなければ、ここまで辿り着けませんでしたから、 お礼を言うのは、私たちの方です」
 明石さんはこの日も僕たちに対して、謙遜の姿勢で思いを話していました。
「今まで本当にありがとうございました。今度は電車で会いたいですね」
 僕は胸が詰まる思いで、明石さんにお礼の言葉を贈りました。
「こちらこそ、長い間ご迷惑をお掛けしました。これからもご愛顧の程、よろしくお願いします」
 明石さんの瞳には、光るものがありました。きっと、明石さんたちも、 4月1日を待ち望んでいたのでしょう。仕事の邪魔をしない様に移動をしようとした時、 明石さんに呼び止められ、一枚のメモを頂きました。メモには明石さんの連絡先が 書かれてありました。電車で会いましょうとは言ってはみたものの、全線復旧したら 明石さんを探すのは不可能に近いだけに、明石さんの方から連絡先を教えて頂いた事に、 とても驚き、そして喜びました。
 再び最後尾に並び直したのですが、明石さんは休憩に入ったのか、シフトからはずれたのか、 それきり会う事はありませんでした。
 翌4月1日。誰もが待ち望んだ、JRの在来線完全復旧の日を迎えました。 僕も電車で学校……と言っても部活ですが……に行きました。いつも当たり前の様に 乗っていた電車が、こんなにありがたいものなんだと、心の奥底から感じました。 同時に、鉄道の復旧が、街の復興に繋がって欲しいとも思いました。
 三年生になった僕は、進路を本格的に決めないとなりません。両親は音楽大学に 進学しても良いとは言ってくれたのですが、僕の心の中には、鉄道の復旧のため、 日夜問わず復旧工事や、代行バスの運行管理に携わった鉄道マンの姿がありました。 これから街の復興の支えの一員になりたい。そう思った僕は、進路指導室に行き、 鉄道会社で求人がないか聞きました。先生に調べて頂いた結果、明石さんの会社で求人があり、 実際に就職した先輩もいる事が分かりました。
 その結果を踏まえて、両親と相談しました。初めは戸惑っていた両親も、 僕が代行バスを通じて感じた事を話しているうちに、
「恵太が行きたいって言うんやったら、行ってもええんちゃうか」
理解を示してくれました。
 それから僕は、進学向けの勉強から就職向けの勉強に切り替え、 9月の採用試験を目指しました。試験そのものは難しく無かったのですが、 他の鉄道会社が採用を見送っているため、受験者が多く、面接でかなり緊張したのを 覚えています。もちろん、面接では、代行バスで感じた事がきっかけで、 鉄道マンを目指している事を話しました。
 その甲斐あって、採用内定を頂きました。一番に喜んでくれたのは、明石さんでした。 僕が明石さんの会社の採用試験を受ける事で、迷惑をかけるといけないので、 明石さんには黙っていただけに、僕が考えてきた事を話すと、とても嬉しそうにしていました。
 僕のクラスには、他にも消防局や自衛隊、看護学校に進路を変えた生徒がいます。 いずれも、被災して助けられて、自分が受けた恩を返したい、という人たちです。 震災で失ったものは確かに多いですが、人の事を思いやる心の優しさを、 震災で得たと思います。
 年が経つにつれて、街は復興したかの様に見えますが、家並みの中の更地を見ると、 実際には復興への道のりはまだ途中だと思います。社会人になってからは、 仕事に打ち込む事で精一杯だったと思います。気が付いたら10年になろうとしている。 その間、僕は震災で心の傷を負った人々に、何を与える事が出来たのだろうかと 考える事があります。鉄道がしてきた社会的復興は終わったとしても、 本当の復興は終わりであってはならないと思います。
 今、僕は運転士をしています。直接お客様と接する機会は少ないのですが、 お客様に接することに、直接も間接もないのが鉄道マンの仕事です。お客様の笑顔が、 お客様自身の震災で負った心の傷の薬になれば……10年を目の前にして、 その事を考えて仕事に励んでいます。