文芸処・椋岡屋 作品集
★線路よ輝け、未来へ
立花の阪神淡路大震災
 藤田から送られた手記を読んだ永田は、深い溜息をついた。多感な高校生に 襲った地震が彼を苦しめ、葛藤と闘わせた事に、藤田が多くを語らなかった理由を感じた。
 返事のメールを送ろうと、メールチェックをしたところ、一件の受信があった。 差出人は立花学。心当たりはなかったが、件名で青い鳥を名乗る人だろうと思い、 メールを開いた。
〈ミカエルさん、メールでは初めまして。青い鳥こと、立花と申します。
 今回、手記の件ではお世話になります。
 前に掲示板に書いたと思うのですが、私自身は直接被災した訳ではないのですが、 震災で友人を亡くしており、正直なところ、「おほなゐ」を聴いてから、 彼の事をよく思い出して、まだ心の傷は癒えていないと感じています。
 それでも、直接被害を受けたジョイ君が前向きになった事で、私もいつまでも 後ろ向きでいてはならないと思い、手記を書きました。
 お目汚しかもしれませんが、どうぞご活用下さい〉
 彼も、掲示板では多くを語らなかった。明石からも、彼は辛い思いをしているだけ としか聞いていない。その立花が記した思いとは……永田は添付ファイルを開いた。

 1995年1月17日5時46分。鳥取に本店を置く銀行の本店行員である私は、 自宅の布団の中で迎えました。地震そのものはよくある地方なので、別段に慌てる事無く、 比較的冷静に「今のは震度3ではないな」と思って、再び眠りにつきました。
 当時は朝テレビを見る習慣がなかったので、朝の地震の震源地が阪神地区だと知ったのは、 出社して、朝礼での本店長の話からでした。
「ニュースで知っているかもしれないが、今朝、阪神で大地震が発生しました。 現地には当行の支店があります。必要に応じて、応援に行って貰う事もあるので、 特に関西出身者は心得ておく様に」
 本店長の言葉に、京都出身で神戸の大学に通った私は、直感的に自分が行くかも、 と感じました。
 昼休憩の行員食堂は、朝の地震の事で持ちきりでした。テレビの前には何人もの 行員が真剣に画面を見ていました。その日、本店長は阪神地区の支店と連絡を取る事に 翻弄していました。大阪支店は全行員無事との連絡が取れましたが、 神戸支店とは連絡が付きません。
 結局、神戸支店と連絡が取れたのは、翌朝になってからでした。 支店はかなり被害を受けて、更に行員の何名かと連絡がつかないとの事でした。 神戸支店からの連絡を受けた本店長は、幹部と協議した結果、応援要員を送る事になりました。 同時に、家に帰れない行員のための救援物資も運ぶ事になりました。
 当然の事ながら、現地の道を知っている私と、もう一人、昨年まで大阪にいた 土師さんが行くことになりました。早速、本店の倉庫から備蓄品をワゴン車に 積み込みました。水、乾パン、インスタントラーメン、レトルト食品、 インスタントコーヒー、お茶、カセットコンロ、乾電池、毛布、使い捨てカイロなど、 冬場の避難生活に考えられる物を載せました。そして、10時頃、鳥取を出発しました。
 国道53号線を進み、佐用から中国自動車道を行き、吉川ICから 緊急車両道路を進みました。しかし、各地からの救援車両で道路は渋滞し、 見る見るうちに日が暮れてしまいました。外は灯りがなく、緊急車両の赤色灯が その場を照らすだけでした。
 目印になるものがなく、無事に神戸支店に着けるか不安でしたが、なんとか辿り着きました。
 神戸支店の人たちは、支店内の片付けで疲れているのにも拘わらず、私たちを暖かく迎え、 救援物資の積み下ろしも積極的に手伝ってくれました。
 しかし、息つく間もなく、支店長から、
「宮島君と未だに連絡が取れない。申し訳ないけど、自宅に行ってみてくれないか」
深刻な表情で告げられました。現場の要請に極力応える様にと、本店長から 言われていましたので、すぐに支店の車で、宮島の家に向かいました。 彼とは同期入行で、研修の時に打ち解け合って、お互いに家を往き来していました。 地震があった日から、私も連絡を取ろうとしたのですが、今日まで連絡が取れていません。 それだけに、支店長の宮島と連絡が取れないという言葉に、不吉な予感がしました。
 宮島の家は須磨にあります。須磨に向けて国道2号線を一般車両の車線で走りました。 長田の辺りを通る時、焼け焦げた強烈な臭いが車の中にまで入り、胸が締め付けられました。
 須磨に着いたのは未明でした。私の記憶を辿っても宮島の住む鉄筋アパートに 辿り着かず、支店長から渡された自宅までの経路図を見ても、目印になるものが 倒壊したりして、宮島の家を探すのに一時間ぐらいさまよった記憶があります。 電柱の住所表示を頼りに、宮島の住むアパートの近くまで来た所で車を止めて、 夜が明けるまで仮眠を取りました。仮眠と言っても、余震で何度か目を覚まされました。
 日が昇り、私たちは宮島の住むアパートを探しました。半壊、全壊した家の中から、 彼のアパートを探すのは難しいかと思いましたが、地元の人に聞いて、 場所はすぐ分かりました。なぜなら、彼が住むアパートが倒壊して、 行方不明者を捜すために、地元の方が集まっていましたから。
 地元の方の話では、上層階に住んでいる住人は助けられたが、一階に住む人が まだ生き埋めになっているとのことでした。
 私たちも地元の人と一緒に、瓦礫の山と格闘しました。重機が間に合わず、 柱など、大の大人が何人も掛かって持ち上げました。コンクリートの塊をどけて 鉄筋の柱を持ち上げた時でした。
「人がおるぞ!」
 誰かの叫びで、一斉に周りの人が集まってきました。私は柱を持つ手の隙間から、 埋もれている人を見ました。それは紛れもなく、宮島の変わり果てた姿でした。
「宮島! 返事してくれよ! 俺だよ! 立花だよ!」
 私は無我夢中で彼の名を叫びながら、宮島を救出しました。しかし、 彼が目を開ける事も、息をすることもありませんでした。
 老いた母親のため一般職で入行しながらも、新人研修ではリーダーシップを取り、 総合職の自分より気の利いていた宮島。その宮島の早すぎる死に、私は哀しみを通り越して、 涙も出ず、ただ悔しがるだけでした。土師さんと一緒でなければ、 その場で取り乱していたかもしれません。
 地元の方に公衆電話の場所を教えて頂き、公衆電話に向かったのですが、途中、 倒壊した家から鳴り響く電話のベルに、更に胸が締め付けられ、涙が溢れてきました。 支店に宮島の早すぎる死を伝え、支店からは、親族の方に連絡し、支店の人間を 現地に向かわせるので、それまで待機する様に指示がでました。支店の行員が来るまで、 宮島のお母さんを始めとする行方不明者を地元の人と共に捜しました。結局、 一階に住んでいた方々は遺体で発見され、現場は深い悲しみに包まれました。
 支店の行員が来たのは14時頃でした。私達は地元の方と支店の行員に宮島の事をお願いして、 支店に戻りました。今までの神戸の街を走っていたのは夜だったので、 実際どうなっているのか分からなかったのですが、明るいうちに通る事で、 今回の地震が多くの被害を目にし、震えが止まりませんでした。長田の街は焼け野原と化し、 夕陽がその惨状を生々しく映し出していました。
 支店に戻った時には日が暮れていました。支店では24時間体制で、 営業再開に向けて、機械の調整などを行っていました。災害時に一日でも早く、 当座の資金を必要とするお客様に、現金を提供出来る様にと、支店の行員は 懸命に作業を進めていました。
 誰もが気丈夫そうにはしていましたが、同僚が亡くなった哀しみが、 支店内を染めていました。それでも働く行員たちを見て、自分もいつまでも 現実から逃げてはならないと思いました。
 支店で三時間ほど休ませて頂いて、私たちは本店に戻りました。戻るなり、 本店長に宮島の死を改めて伝えました。そして、神戸支店の現状を報告して、 今回の応援隊の任務は終了しました。でも、私の心の中には、現地でやり残した事が ある様な気がしてなりませんでした。
 地元民ではないけれど、自分に出来る何かがあるはず……そう思った私は、 土曜日の朝早く、食料と飲料をデイバックに詰めると、バイクにまたがり、 一路神戸へ向かって出発しました。地震発生から初めての土曜日とあって、 神戸に近付くに連れて、バイクの数も増えてきました。不思議な事に、 先は急いでいるけど、先を争う人はいませんでした。今になって思えば、 助け合いの心が、自然と道を譲りあったのでしょう。
 私はひとまず、宮島の自宅に行きました。誰が置いたのでしょうか、 倒壊したアパートの一角に、花とお菓子が手向けられていました。 私もバッグの中から缶ビールを取り出すと、花の横に置き、手を合わせました。
 黙祷を捧げ、立ち上がると、電柱に「○○家、全員T小学校にいます」と 書かれた貼り紙を見つけました。他にも「△△へ。連絡下さい。××」など、 安否を尋ねる貼り紙が幾つもありました。私はそれらをメモして、 近くの小学校や中学校、公民館にバイクを走らせ、先の安否情報を伝えて回りました。 また避難している人たちからも、自分がここにいる事を伝えて欲しいと依頼を受け、 またバイクを走らせました。場所を変えたりして、日曜の午後まで安否情報の伝達をして、 鳥取に戻りました。
 平日は銀行員としての仕事をしていましたが、心の中では神戸の街が気になっていました。 余程、神戸支店の支援に行かせて貰おうかと考えました。しかし、仕事とプライベートの 区別はきっちりつけないと、死んだ宮島も浮かばないだろうと思い、 人の倍以上するつもりで、仕事に励みました。
 次の週には、JR神戸線が芦屋まで運転再開していたので、昼間はボランティア 活動をして、夜は芦屋のバイク屋さんにバイクを預かって頂き、電車で実家がある 京都に行き、夜が明けたら電車で芦屋に向かう様にしました。
 活動の拠点も、宮島の住んでいた須磨から範囲を広げました。安否情報の伝達に終わらず、 食事などの配給物も配達したりしました。休みなしで活動している事もあって、正直、 体は辛かったのですが、被災した方々の笑顔を見ると、自然と元気になって、 ボランティア活動に力が入りました。
 金曜の夜に鳥取から京都に向かい、日曜の夜に鳥取に戻ってくる生活は4月の 頭まで続きました。JR線が完全復旧する時が一つの区切りと思ったからです。 また、4月から部署が代わり、土日も出勤する事があるのも、一つの理由でした。
 ボランティア最終日、私はいつもと変わらぬ活動をしましたが、 一緒に活動していたボランティア仲間には、今日が最後になる事を告げました。 すると、彼らは「何も告げずに終わると、被災者の方が心配するから」と、 私が今日で最後になる事を、被災者の方々に告げました。
「そうか、今日まで本当にありがとう」
「あなたの暖かい心は一生忘れないわ。またどこかでお会い出来るといいわね」
 皆さんから感謝の言葉を頂き、不覚にも涙が頬を伝いました。
「皆さんの事は一生忘れません。皆さんも頑張って、神戸の街に元気を与えてください」
 感極まって、そう言うのが精一杯でした。被災者の皆さん、ボランティア仲間に見送られて、 私は神戸を後にし、鳥取に向けてバイクを走らせました。あの時に言った事が、 本当にふさわしい言葉だったのか。その事がいつまでも頭の中を駆け巡りました。 その答えは今でも出ていない様に思います。
 阪神淡路大震災以降も、ボランティア仲間とは年に一、二度会って、 絆を確かめ合いました。また、日本海沖の重油流出事故の時も、連絡を取り合って、 一緒に活動しました。
 宮島の事は、今でもどこかに生きている様な気がします。彼に似た風格の人を見ると、 彼が生き返った様な錯覚すら覚えます。その度に、宮島に笑われているような気がして、 「あぁ、これでは駄目だな。宮島の分もしっかり生きなければ」と言い聞かせています。
 阪神淡路大震災を機に、家に防災用品を備えました。これは結婚してからも変わりません。 日頃の備えがいかに大切かを話し合い、防災備蓄を怠らない様にして、自然災害に備えています。
 阪神淡路大震災は私に多くの事を教えてくれました。命の大切さ、人の絆、ライフラインの重要性。それらはお金では決して得られるものではありません。年を経るに連れて、その大切なものが忘れられている気がします。  阪神淡路大震災発生から10年。命の尊さ、人の絆、普段何気なく使っている ライフライン、交通機関。それらを考え、見つめ直す機会だと、私は思います。