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掲載日:2013年05月24日

★蒼色の笛

第1章 プロローグ~蒼色の笛~

 いつもなら、沿線に咲く満開の桜を遠目にしながら運転をしているのに、復職した後輩の添乗指導が終わり、本来の乗務に戻った4月の初旬には既に葉桜。 それでいながら、4月も残り3分の1という時期に冬としか言えない天候に逆戻り。ようやく春らしい気温に戻ってきたが、スプリングコートを脱ぐのには少し肌寒い。

 首都圏における、今年……2013年……の4月は季節の進行がおかしすぎる。こんな年があっても仕方がないのか。 多摩川高速鉄道大森電車区指導主任の小杉希望のぞみは、ため息混じりに帰宅の途につく。 街路樹も早くに芽吹き、どうやったらこんな変な季節進行になるのかと思いつつ、横浜のダイヤモンド地下街にある食品売り場で買い物をする。

 指導主任とは、多摩川高速鉄道において「添乗指導資格があるメンタルケア担当の主任職の運転士」という話。乗務員室に入り添乗するのに当たり、 指導資格を得て国土交通省の認定も受けているので、厳密に言えば教導運転士なのだが、人身事故等の当事者のメンタルケアを優先して行う目的で、 運転士養成の線路見習いを中心に指導する教導運転士とは別に設けられた、多摩川高速鉄道独自の役職である。添乗指導資格があるため、 病気欠勤明けや復職後の運転士の運転動作確認、定期的に行われる若手へのフォローアップも担当し、通年での指導となり、日勤での乗務の方が多く、勤務変更も多い。

 どのみち、運転士であることには変わりがなく、通常勤務の今日、平日の日勤早番という勤務後に買い物に行ったところで、タイムセールという言葉は無縁に近いが、 その分無駄な買い物をしなくて済むので、希望としてはあまり気にしていない。それよりも、この歳になっても会社の顔なので、主婦じみたところを見られたくない、 これが希望の本音だ。

「あ、良いお魚が入っている。今晩はこれだね」

 希望は切り身魚のパックを手に取り、買い物カゴに入れる。今日は二人分の食事を用意するのだが、自分と夫の勤務を考えると、 切り身でも二切れでないと無駄が出てもったいない……そこは主婦の発想。他意を感じられないように、他の食材も見ていく。

 一通りの買い物を終えて、帰宅したのが16時前。指導主任になった4年前、横浜駅徒歩圏内のマンションを購入し、位置的に沿線と言うのには半ば強引だが、 再び海岸線沿線住民になっている。職場直結の大森中央駅が始発で、社宅もあった多摩川本線沿線も捨てがたかったが、それ以上に海岸線は勝手を知っており、 夫の実家にも近いという理由で、横浜駅の近くになった経緯がある。

「ただいま~」

 玄関のドアを開けるなり、一声掛ける。

「お帰り。今日もお疲れさん」

 労いの言葉の主は、夫で、大森電車区助役を務める小杉利緒としお。彼とは2004年6月に結婚。 昨夕から今朝に掛けて当直で点呼台に立っていたので、出勤点呼と乗務前点呼の時に顔を合わせているが、職場ではあくまでも上司と部下の関係なので、労いの言葉一つとっても、 家と職場では言葉尻も変わる。優しい言葉尻に、希望は運転士から妻になり、ひとまず買ってきた食材を冷蔵庫に入れるが、

「あれ? あなたが率先して、みゆきさんの曲を聴くなんて、珍しいじゃない」

リビングから流れる音楽に即座に反応し、希望はそのままリビングに足を向け、ソファに座っている利緖の横に座る。

「希望が聴いていたのを横で聴いて、心に留まる曲があったから、聴いていたところ」

「今流れている曲のこと?」

 希望が吹奏楽と中島みゆきを好んで聴いていることは、結婚する前からオープンにしているし、利緖は利緖で、リアルタイムで「中島みゆきのオールナイトニッポン」を聞いていたから、 リビングに中島みゆきの曲が流れても何ら不思議ではないのだが、その曲が2012年に発売されたアルバムに収録されている「風の笛」であることに、 希望はふと思い返したものがある。

「私たち、お互いに、誰にも言えない辛さを抱えていたね」

「そうだな。あのとき、希望から事実を告げられなかったら、辛い思いを抱えていたし、希望とも同僚に戻ったままだったから」

 あのとき……2002年初冬、希望が主任推薦昇格の打診を受けて、その不安と迷いを相談した時。一度は大切な人同士の絆を結びながらも、同僚の関係に戻った二人が、 その日を機に、再び同僚の一線を越えた。

本牧ほんもくのエンド交換のとき、あなたと結婚するなんて思ってもいなかったから、運命って不思議なものだね」

「本当に不思議だな。それでも、希望と付き合いを始めるようになるまで、3年半程あったけど」

 その3年半の間、恋人の奥沢隼人、前夫の小牧隆之の存在があり、彼らが若くしてこの世を去らなければ、希望の人生は今とは全く異なっている。少なくとも、 事故が起きなければ小牧希望だし、もしかしたら、奥沢希望だったのかもしれない。

「希望が電車区に来た前の年に、指導主任になって、いつも希望をフォローアップしていたから、僕は他の同僚以上に、希望のことを意識していたけど」

「他にも指導主任がいるのに、なぜか、あなたばかり。これも運命だったのかな? ウチの区って所属人数が多いから、会わない人には会わないし」

 多摩川高速鉄道海岸線の乗務拠点は一線一区。担当となる大森電車区所属の運転士は200名弱で、若手の運転士に限らず、顔と名前を一致させるのに一苦労。 年末年始の挨拶ともなると、誰に挨拶したのか把握しきれない。未だに女性運転士は希望だけなので、男性社員の方はすぐに分かっても、希望の方はすぐには分からない。 これに車掌が加わると、乗務員同士であっても、挨拶しかしない場合がある。

「それなのに、宮浦君とは意識しなくても良く会うのよね」

「宮浦君との付き合いって、長くない?」

「宮浦君が入社して吹奏楽団に入ったときからだから、かれこれ18年。ここまで来たら、腐れ縁だね」

 希望の笑いに、利緖もつられて笑う。