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掲載日:2013年05月24日

★蒼色の笛

第3章 多摩高本牧駅MD騒動

 運転士だった利緒としおと、 多摩高本牧ほんもく駅で運輸担当をしていた内海がやりとりする時期はそんなに長くはない。 一体いつ頃の話なのだろうかと、希望のぞみは率直に尋ねる。

「海岸線の車両プロジェクトチームが始まってすぐの頃」

「その時期だと、2002年の春だけど、何かあったっけ?」

「1週間から10日置きぐらいに、下り列車の1号車1番ドア横の座席下という場所に落ちていて、内海君と、作為的なものがあるって話していたんだけど、 希望は見たことがある?」

 希望は首を横に振るが、MDという言葉に心当たりはある。運転士養成からの同期である西春が拾ったと聞いたし、 内海からは「希望先輩ならすぐに分かると思うんですけど」と聞かれた覚えもある。そのことを利緖に話すと、

「希望が見たことがなければ、その後のことは分からないよな」

何か気にしている様子を伺わす。

「その後って?」

「6月の半ばに入ったら、その落とし物、ぴたりと止まったから」

 6月と言えば……希望のおぼろげな記憶が、鮮明なものと変わる。

「思い出した! MDの落とし主、内海君の奧さんで、真里奈さん。なんでも、内海君に想いを伝えたくて、MDを置き続けたって」

「それは、内海君に想いが伝わったから、MDを置く必要がなくなった、ということ?」

「その通り。あれって、あなたが絡んでいたんだ」

 内海からは、自分がMDを引き継ぐ運転士がいつも同じ、というのは聞いていたが、それが誰なのかまでは聞いていない。その運転士が身内となれば、驚かない方が不思議だ。

 当の利緖の話によると、海岸線の1号車1番ドア横の座席下は、下り列車乗務の運転士がドア扱いを終えた後に客室の確認をする際、一番に目が付くところ。 そのため、MDを拾うのは乗客より運転士の方が多かったのだが、利緖が拾った時に限って、ホームにいたのが運輸副主任になったばかりの内海だった。 最初は事務的に引き継いでいたが、同じ場所での周期的な落とし物に対する憶測を交わしているうちに、ホームで話し込む様になったと言う。

 気になったのなら、直接、内海に聞けば分かるものなのだが、本牧に行っても、必ずしも内海に会う訳ではないから、顛末を聞く機会を失って、そのまま忘れた可能性がある。

「内海君と真里奈さんの接点って、何だっけ」

 長年の謎が解けて妙に納得した利緖は、更に希望へ問いかける。

「吹奏楽。ウチの楽団の定期演奏会に来た真里奈さんが、内海君にぞっこん」

 後に内海の妻となる、大橋真里奈が内海に惹かれたのは、社内吹奏楽団の定期演奏会で演奏した「海の歌」での、ホルンのソロを聴いたのがきっかけ。 彼を探し続けて5年、偶然にも多摩高本牧駅で内海の姿を見付けた。

「それにしても、想いを伝えるのに、直接会ったり、手紙を渡したりするものだと思うけど」

「それに関しては、私たちに言える口はないよ。二人して、ワンクッション置いたんだから」

 利緖が希望に手紙を渡した時も、希望が利緖に手紙を渡した時も、「車両プロジェクトチームの区単位会議の議事録」と偽って、助役経由で渡している。利緖が希望に手紙を渡した時は、 「直接渡したところで、受け取りを拒否されてもおかしくない」という状況下。希望が利緖に手紙を出した時は、既に利緖と交際をしていたが、 利緖が希望に渡した手紙の返事を伝えるのに、話し言葉ではなく、形に残る手紙にしたものの、直接手渡したり自宅に送ることに躊躇いがあった。 いずれも、希望と利緖が同じ区に所属し、車両プロジェクトチームのチームメンバー同士だったから使えた手法だ。

「内海君って、最初から本牧ではなかったよな?」

「駅務は大森で、運輸になったときに本牧に行ったけど……あれ? それだと内海君がソロを吹いたときは、本牧だ」

 てっきり、内海の大森駅務区時代に演奏したと思っていたのだが、どこかで勘違いをしている。いつどこで勘違いをしたのか? それは今考えることではないので、 希望は、真里奈が多摩川本線沿線住民で、海岸線の利用は大森中央駅までだったため、本牧方面に行くことがなく、本牧に住む市民吹奏楽団の先輩宅へ行く時にMDを落とさなかったら、 おそらく、内海に会うことが出来なかったのでは、と話す。

「その最初の偶然で、MDを拾ったのが僕だった訳だ」

「あなたが内海君と真里奈さんの橋渡しをした、ということかな」

 とは言うものの、周期的なMDの落とし物で、多摩高本牧駅駅務チームでは業務に支障が出るところだった。多摩川高速鉄道の拾得物管理システムが本稼働となった直後で、 ことに、内海からMDを引き継いだ駅務係の深沢、真里奈にMDを引き渡した、やはり駅務係の大倉涼子は、慣れないシステム運用にも翻弄されて、いい迷惑を被っている。 ついでに言えば、MDを拾った率が高かった利緖もだ。最終的には、MDに添えられたメモで、内海は真里奈が自分のことを探していることを知り、 真里奈が所属する市民吹奏楽団のコンサートに行ったことで、騒動に決着がついている。

 交代勤務従事の社員と、日勤勤務従事の社員が交際するのは、どちらかが時間を譲ることになるのだが、内海たちの場合、主に内海が真里奈の都合を取る方向で交際を進めていった。 もっとも、運輸の勤務体制にいくつかパターンがあっても、出退勤の時刻は一定なので、土日以外でも都合が付きやすい。むしろ、土日は双方共に練習が入ることが多いから、 平日に会うことが多かったようだ。

「一般の人同士でも、結婚を決意するのに迷いとかあると思うけど、真里奈さんは不安ではなかったのかなぁ」

「真里奈さんが内海君に付いていく、という気持ちは早くからあったけど、結婚そのものより、鉄道員の妻になることに不安があったよ」

「災害時や事故時には、職場に泊まり込みになることがあるから、その間、家族を守るのは相手だもんな」

 内海から相談を受けていた希望は、利緖の言葉に頷き、有事に家族を守る責任を考える。夫婦だけならまだしも、子供や親がいたら、その分、責任が重くなる。 希望と利緖の間に子供がいないが、場合によっては、実家の家族を守ることも出てくる。ただ、二人とも鉄道員のため、二人とも職場に泊まり込む可能性も十分あり、 有事にどれだけ実家の家族を守ることが出来るのか、希望の心に不安が過ぎった。おそらく、同じ不安を利緖も持っているだろう。

「不安と言えば、トラブル仲裁で負傷するリスクがある、というのはどうだったんだろう」

「交際中に内海君が負傷して、真里奈さんも、乗車した新幹線で車内トラブルに遭遇したから、そこは覚悟出来ていたみたい」

「内海君の負傷って、どの程度?」

「頬の打撲傷で済んだけど、そのときに宮浦君が通りかからなかったら、それ以上だったって」

 希望は、内海がトラブル仲裁で負傷した時のことを利緖に話すが、その当時に比べても、鉄道会社社員に対する暴力行為は年を追うごとに増えている。 暴力行為を振るう乗客に対して鉄道会社は、警察への通報、被害届の提出など、毅然とした対処を取っているが、モラル低下も加わり、暴力行為の件数は減る兆しが見えない。 多摩川高速鉄道も例外ではなく、年末年始の宴会シーズンにもなると、防犯用品を常に携帯している希望も気が気でない。真里奈が鉄道員になりたかったのを親に反対され、 一般企業に就職したのも、このことが加味されていた。

 一度は鉄道員の妻になる不安を感じた真里奈だが、内海との結婚を決意し、鉄道員の妻として内海を支えていく。結婚後も真里奈は正社員で働くが、 内海も真里奈をサポートしていくことで、更なる愛を育み、子供を授かる。しかし、その子供は父親も母親も見ることが無かった。そして、真里奈も一緒に天国へと。 内海は自分が鉄道員故に、真里奈もまだ見ぬ子も護ることが出来ず、自分自身を責めるが、双方の両親は、真里奈が鉄道員の妻であることを心得て、 内海の職務を優先した結果だから自責することは一切ない、と内海を諭す。

「真里奈さんが亡くなったとき、内海君と、家族の死に目に立ち会うことが愛情を注ぐことなのかと話したんだけど、家族が看取ったから本人は幸せ、ではないのよね」

「それはどういう意味で?」

「息を引き取るときの本人の気持ちは、誰にも分からないから」

 利緖の問いに、希望はしばし考えてから答える。事故や事件に遭って、その場で息を引き取ることがあれば、意に寄らない事由で病院に搬送され、 家族が来る前に病院で息を引き取ることもある。それ以上に、誰にも看取られずに息を引き取る人の方が多いだろう。家族に看取られなくても、 息を引き取る直前まで本人は幸せに思っていることがある一方、家族に看取られても、その家族に敵対心を持っている場合もある。 この世を去った人が幸せだったかどうかを考えているのは、遺された側であって、本人ではない。

「事故だと、小牧君もだけど、あのとき希望はどう思った?」

「あのときは、突然命を奪われたことで、とにかく嘘であって欲しい、とだけしか考えられなかったし、その後も、自分が置かれた状況から抜け出すことで精一杯だったから、 考える余地もなかった」

 語りながらも、小牧にとっては職務を全うした上での死だったから、第三者の行為でその場で息を引き取っても、彼は幸せだったのだろうと、 自己矛盾を感じつつも希望は考える。希望の心持ちを感じ取ったのか、

「仮に、希望が運転中に踏切事故に遭って、その場で息を引き取ることがあったとしたら、それは希望にとっては幸せなの?」

利緒が静かに言葉を掛ける。

 多くが高架や地下の海岸線で踏切事故等に遭う可能性は少ないのだが、皆無とは言えないため、その稀なケースに遭わないと断言出来ない。 自分が踏切事故等の当事者になった時、周りはどう思うのか……それすら考える間もなく息を引き取るかもしれない。

「自分に過失がなければ、職務を全うしての死になるから、私自身は幸せかな。もっとも、そうならないためにも、未然に事故を防ぐように頑張っているけどね」

「そうならないように、僕も願うよ」

 最愛なる妻が事故と背中合わせにして運転士を続けていることに、やはり不安があるのだろう、利緒の言葉には切実なものが込められている。希望は、不安になることはないよ、 と笑みを見せたが、

「内海君、まるで真里奈さんの後を追うように、天国へ旅立ったのよね」

希望は表情を堅くして、内海のことを想う。