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掲載日:2013年05月24日

★蒼色の笛

第5章 現代の湖山長者

 それでもまだ表情が堅い希望のぞみの気持ちを軽くしようと、

「希望と結婚した年の秋に運輸司令に行ったから、そこから先の本牧ほんもくのことは、 吉岡君を始めとする運輸担当助役ぐらいしか知らないんだけど、今はどうなっているの?」

利緒としおは本牧駅務区の現状を尋ねる。

「運輸担当助役の他となると、運輸主任の早川君が中心になっているよ。内海君がいた頃は、内海君、吉岡君、早川君、飯田助役の4人で、本牧運輸カルテットと呼ばれていた」

 希望もようやく笑みを見せて答える。二人とも内海とは良く遭遇して話し込んでいたが、内海以外に関しては、大森電車区から運輸主任として本牧駅務区に異動した、 吉岡正之とはかなりの率で遭遇したが、運輸担当助役の飯田とは終電や初電の乗務報告時以外はあまり会わなかった、と話す利緖に対し、希望は、自分は飯田とはホームで良く遭遇し、 その度に話をしては内海や吉岡、早川の話を聞くことが多かった、と笑う。希望と利緖とで本牧で会う運輸担当に違いがあるのはなぜか、 言ってみればどうでも良いことの受け答えをする。

「吉岡君って、せっかく電車区で主任まで上がったのに、なんで運転台を下りて運輸に戻ったのだろう」

「家庭の事情、ということになっているけど、実際には、前の奧さんとのすれ違いが酷くて、離婚」

 吉岡は運転士の時に前妻と結婚したが、前妻は分単位での出勤管理に強く不満を持っていたという。吉岡としては前妻と別れたくなくて、出退勤時刻が一定の運輸に戻り、 社内吹奏楽団も退団したのだが、調停離婚では収まらず、審判離婚まで行ってしまったらしい。

「吉岡君の一件を見たら、死別はあっても、離婚は絶対に嫌だね」

 若くして死別した希望の言葉には説得力があり、利緖も納得する。交代勤務同士でありながら、喧嘩らしい喧嘩をすることもなく、今でも新婚気分で家庭を築いているのも、 そのことが一つの要因だ。

「吉岡君、主任昇格試験に一度で合格したから、プライドが高い部分があって、内海君との確執があったよ」

「彼も主任に上がるのが早かったからなぁ。電車区の感覚で本牧の運輸に行って、内海君から指導を受けることでプライドを傷つけられた、と考えられるな」

 吉岡が本牧駅務区に異動した際、運輸担当の業務を指導したのは、年齢も待遇も役職も下でありながら、経験だけは上の内海。内海から指導を乞うことに、 強い反発を持っていたが、内海が初期の胃潰瘍になったことで、自らが持つプライドで、部下に対して見下した態度を取っていたことに気付き、心を入れ替えたことで、 内海との確執はすぐに終わり、内海は最後まで吉岡のことを慕っていた。

「鉄道業界の現場は、試験による実力主義だから、年下の上司や、年上の部下なんてざらなんだけどな」

「そういう意味では、社内吹奏楽団の上下関係は、業務では弊害なのよね」

 試験によって上下関係が築かれる現場に対し、社内吹奏楽団は入団順で上下関係が築かれており、文化クラブでありながら体育会系の秩序は、弊害と言えば弊害である。 一方で、職務や役職、年齢に関係なく、対等に意見を交換出来る場でもあるので、職場交流会以上の横の繋がりがあり、希望も吹奏楽団の練習後に、 他の職務の団員と意見を交換している。

「そうそう、吉岡君が水死体を発見したニュースって、覚えている?」

 彼の話が出たら、これが出ないのはおかしいと言わんばかりに、希望は利緖に尋ねる。

「実家と同じ区の自治会で、会長と副会長が相次いで殺害された事件だから覚えている」

「ニュースで聞いたとき、あなたの実家と同じ区だと思ったけど、まさか、会長の水死体を発見したのが吉岡君だったとは、思いも寄らなかったね」

 利緖の実家があり、今は希望たちも住んでいる横浜市某区のエリアは結構広いのだが、彼の実家の自治会と、会長と副会長が殺害された自治会とは近い場所にあり、 希望たちには他人事とは思えず、後に吉岡から事件の全容を聞いている。

「吉岡君が水死体を見付けたのも、偶然の重なり合いだったよな」

「鳥取に行くのに、普通の人なら『のぞみ』と『スーパーはくと』、もしくは飛行機だし」

 あくまでも「普通に」である。希望が法要で鳥取に行く時も、勤務の都合で飛行機を利用する方が多かったし、吉岡も普段は「普通に」鳥取に帰省しているが、 その時に限って、寝台特急「サンライズ出雲」で米子へ行き、山陰本線上りの快速列車で鳥取に向かっていた。同行していた、 当時多摩高本牧駅運輸係の末恒円香が、中国地方の最高峰である大山だいせんを見たいと言わなければ、 日本海側の座席に座っていたのだが、大山が見える山側にそのまま座っていたところで、日本最大の池である湖山池の畔に打ち上げられた、水死体らしきものを発見したのである。

 普通なら、駅間を走行中の列車の車内から、線路端のモノの判別は難しいのだが、そこは元運転士の吉岡。人よりは遠方視力や動体視力が良い。故に、人より視力が良い分、 見なくても良いものまで見てしまう。見たとしても、気にしなければ良いだけの話だったのだが、気にしてしまったが最後、湖山池に近い鳥取大学前駅で途中下車し、 現場に向かった。

 現場に到着し、車内で見た水死体らしきものが水死体だったので、吉岡は警察に通報。ここまでは、刑事ドラマのお約束なのだが、駆けつけた警察関係者に、 母校吹奏楽部の後輩が含まれていたのに加えて、水死体が吉岡が住む町内の自治会長で、音楽大学教授の作曲家だったことで、 偶然ではなくて仕組まれているのではないかと諦めに近い思いで、吉岡は事情聴取に応じている。

「吉岡君が住んでいるところって、結構高級住宅が多いから、ウチの会社の給与で住めるのか、と思ったんだけど」

「彼が言うには、騒音の激しい幹線道路沿いの他に、複数の企業の社宅が集中しているところにも、普通のアパートやマンションがあるんだって」

 高級住宅とマンション、複数企業の社宅が入り交じっているため、自治会館建設にあたって、意見も分かれる。何分、社宅では社宅内の管理が優先となり、自治会に対しては、 半強制的に自治会役員に選出された社宅居住者が理事会の類に参加するのと、自治会内の行事に協力するぐらいで、普通の社宅居住者はあまり意識していない。 自治会費も、社宅の会費に含まれている場合も多く、自治会関係者と接する機会も少ない。言ってみれば、自分たちにあまり関係しない施設に関心がない、である。 それは、希望たちも社宅に住んでいたし、今もマンション住まいだから、人のことは言えない。

「賛成派も反対派も、それぞれの思惑があるから、当然対立するんだけど、自治会長は最初は賛成派で、後に反対派に回ったものだから、 賛成派が会長のスキャンダルを自治会内に広めて」

「スキャンダルだと、いわゆる愛人関係だな」

「反対派に回った自治会長と賛成派の女子大生が愛人関係、となったら、格好のネタだもん」

 吉岡の話では、女子大生が会長殺害を思いついたのは、自治会館建設反対の意見が上がった時。彼女との愛人関係を断ち切り、 建設反対側に回った自治会長を妬ましく思うようになり、同じマンションに住む自治会館建設賛成派の主婦に相談する。相談を受けた主婦は、 「会長だけ殺害しても勢力が残るから副会長も一緒に殺害。トップ2が消えたら、自治会の権力は自分たちのところに来るから、 出来るだけ遠くで会長の殺害を行う」ことを提案し、湖山長者伝説……田植えが終わらず、秘伝の扇で太陽を呼び戻すが、 翌朝には池になっていた……を題材にした楽曲の作曲を委嘱することで、自治会長を鳥取に誘導し、殺害を実行した、ということだ。

 吹奏楽コンクール自由曲の作曲を、自治会長である作曲家に委嘱しようとした矢先での事件だったため、社内吹奏楽団の面子にとって、その作曲家が、 自治会館建設を巡った対立で、自治会での権力を保つために愛人関係を断ち切り、関係を切られた側の大学生が妬み、怨念で人を使い、 自治会の会長と副会長を殺害したことに、衝撃以上にやるせなさを感じた。欲望を手にするために、人を使って綺麗さっぱり流すのは現代の湖山長者ではないか、 とも仲間内で語り合っている。

「欲望と怨念で人を殺めてしまったのかぁ……小牧君のときも、怨念に近かったな」

「理由が理由だったし、場所が場所だったからね」

 前夫の小牧が自殺を図ろうとした女性を阻止しようとしたところ、女性に突き落とされたことは、殉職となっているぐらいだから、社内に知られているが、 女性が自殺を図ろうとした背景は、今でも口封じとなっている。ただ、希望が信頼をおけると判断した人……利緖も含むには、その背景を話したが、 彼らから返ってきた言葉は「その理由は身勝手すぎる」であった。二人はそれを思い出すと、揃って深いため息をつく。

「吉岡君と後輩の刑事とで、主婦が犯行を認めるかどうかを特産品で賭けた、という話だったけど、吉岡君の方が当たったんだっけ」

 さっきから話の流れがどんよりしている、そう感じているのは希望だけではなく、利緖も同じ様で、彼の方から話の流れを変えてくる。

「吉岡君の勝ちで、『とうふちくわ』をたんまり」

「事件からすると、鳥取の特産物になるけど、希望は食べたことがある?」

「うん、鳥取に行く度に食べた。鳥取では普通にコンビニで売っているよ。プレーンもだけど、ネギ入りも美味しいかったね」

 「とうふちくわ」とは、魚のすり身よりも豆腐が多く練り込まれている、鳥取の特産品で、希望に勧めたのは奥沢。彼が亡くなり鳥取に行くことはもうないだろう、 と思っていただけに、小牧家の本家が鳥取と聞いて、随分遠い場所にあるものだと思いつつも、再び「とうふちくわ」を食べることが出来るという、 不謹慎な思いがあったのは否定出来ない。しかし、結婚式を挙げる直前に、小牧との結婚生活が2ヶ月で終わったともなると、小牧家における希望の居場所はなく、 納骨と初盆、一周忌は義務的に出たようなもの。三回忌も会社指定の車両教習と重なり出席しなかった上に、三回忌の半年後に再婚したものだから、 それ以後、法要に呼ばれず、「とうふちくわ」を食べる機会もおそらくない。

「それにしても、本牧って、吹奏楽関係者が多くないか」

 とうふちくわの思いに耽っていた希望に、素朴な質問を利緖が投げかける。

「今は少ないよ~。一番多かったのは、吉岡君が運輸で本牧に行った頃で、内海君と円香ちゃんが現役、涼子ちゃんと吉岡君が元団員。 そこに、趣味で吹奏楽を聴いている深沢君がいて、更に、私や宮浦君、矢口君が乗務で行くもんだから、『本牧に行くと吹奏楽関係者がいる』となった次第」

 指折り数えながら、こんなに本牧に集中していたのかと、希望も少々驚きながら答える。

「涼子ちゃんって、車掌区の矢口君の奧さんだよね?」

「そう、矢口君の奧さん。彼女の色恋沙汰は凄かったよ」

 色恋沙汰という言葉に、利緖は少なからずショックを受けた様相を見せる。彼が運転士だった時に、涼子は運輸係になっており、 慣例となっているホームでの運輸担当への声掛けもしている。ただ、涼子が車掌になる前に矢口英明と結婚し、利緒も運輸司令所に異動したため、 車掌になってからの涼子と直接会うことがなく、矢口涼子=大倉涼子ということを知らなかったようだ。