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掲載日:2013年05月24日

★蒼色の笛

第6章 涼子の色恋沙汰

 涼子の最初の交際相手である長原とは、一度別れている。社内吹奏楽団の団員同士だったが、双方とも駅務係で、駅務区も勤務も異なっていたため、顔を合わせることはなく、 涼子としても会いたくない気持ちが強かった。

 別れてから3ヶ月ほど経った時、同僚の深沢に貸すMDを長原に貸したままであることに気付き、返却がてら、再会している。

「それは普通の様な気もするけど」

「3ヶ月は早いよ。会いたくなかったら、事業便で返して貰えば良い話だから」

「確かにそうだな。色恋沙汰ということは、それから何かあった、ということになるのか」

 希望のぞみのもっともな答えに、 利緒としおもそれとなく先を読む。

 長原が涼子と再会して求めたのは、セフレの関係。涼子は躊躇ったが、長原への情が再燃し、彼の求めに応じ、セフレとしての付き合いを始めた。ただ、 長原の方から関係を求めておきながら、彼女が出来てからの行動に、涼子は持病の過敏性腸症候群を悪化させ、通院しながら業務に就く。長原の行為を見てきた希望、 内海、そして宮浦の三人はことある毎に、それはあり得ない、と話している。

「涼子ちゃんの相談相手に、希望がいるのは仕様だし、内海君も同じ職場だから分かるけど、宮浦君は?」

「社内運動会での出来事を、偶然にも見てしまったから。それよりも、相談を受けながら、男って都合が良いときだけ近寄るのかなぁ、と思わざるを得なかったね」

 希望の意味深な言葉に、にわかに不安なものを感じたのだろう、

「僕はそんなつもりは一切ないけど」

利緖は、希望に機嫌を伺う。

「あなたのことじゃないよ、長原君の話」

「希望も、心臓に悪いことを言うなぁ」

「たまにはね」

 誑かしながらも、希望は話を続ける。涼子にとって、精神的なダメージが大きかったのは、長原が彼女と喧嘩すると、涼子に積極的に近付き、 彼女と仲直りすると途端に離れたことで、自分が長原の性欲のはけ口にされている……そのことに気付いた時だった。

「セフレという関係なら、そういうリスクもあると思うけど」

「涼子ちゃんもそのリスクを持って、割り切っていれば、こじれることもなかったんだけど、依存していたのかな? どこかで会えるという気持ちも手伝って」

 二度と会えない、という状況になれば、自分で自分の気持ちに区切りをつけるしかないが、どこかで会えるとなれば、区切りを付けることに迷いが生じるだろう。 不幸にも、涼子も長原も社内吹奏楽団の団員故に、吹奏楽コンクールが近くなると顔を合わせる回数も増える。本当に区切りを付けるなら吹奏楽団を辞める覚悟が必要、 と涼子の親友から言われ、涼子も社内吹奏楽団の退団を決意する。

 涼子には、すぐにでも退団したい気持ちがあったが、その年の吹奏楽コンクールは全国大会まで進み、コンクール編成に穴を空けることが出来ないという思いで、 全国大会を迎え、11月に退団した。

「なるほどね。涼子ちゃんと矢口君の出会いも、吹奏楽団繋がりになるのか」

「吹奏楽団というよりは、クラリネット繋がり」

 矢口は涼子が社内吹奏楽団に入団した時から、彼女に想いを寄せていたが、実際にアプローチしたのは、涼子が長原とセフレ関係を断ち切ったことを受けてからだった。 涼子と長原の関係を聞いたのが、宮浦が「自分には特定の人がいる」と口を滑らせた時。一人でもライバルが減れば、その分、自分の想いを伝えることが出来る……矢口は、 宮浦を通して涼子のことを聞き、宮浦も矢口の恋の手助けをしている。

「それでも、何かきっかけがないと、吹奏楽団を辞めてから付き合うことってないけど、そこはどうなの?」

「涼子ちゃんが運輸に進んだこと」

 数少ない女性乗務員の動向が気になるらしく、利緖の詮索が続く。彼の詮索に希望は嫌な顔を見せないで答える。

 涼子は車掌になることが夢で、多摩川高速鉄道へ入社している。車掌へのステップである運輸係に進まないことには、憧れの道を進むことが出来ない。 他の女性社員が運輸係に進むことを躊躇っている中で、彼女だけが運輸係に進み、それを機に精神的に自立している。矢口がその話を聞いたのが、 社内吹奏楽団内では「姐御」とも呼ばれている希望から、というのは、もはや仕様だ。

 精神的に自立した涼子が運輸係の仕事に慣れた頃に、矢口は涼子を誘い、交際にこぎ着けた。ただ、涼子が当時23歳、という年齢に、矢口はいつ結婚するか悩んだらしい。

「23歳だと都会では早い方だから、無理もないな。というより、そんなに早く結婚を意識するものなんだろうか」

「あれ、言わない? 結婚は勢いとタイミングって。私だって、小牧君のときは、勢いとタイミングに近かったから」

 利緖の問いは愚問に終わる。互いに自分たちの結婚は慎重だったことを話しつつ、矢口が涼子にプロポーズをした際、彼女は長原との関係を告げ、 矢口はそれを否定することなく結婚に踏み切った、と希望は説明する。

「矢口君との交際、順調に進んでいたんだけど、最後の最後で、涼子ちゃんと長原君が会うことになって」

「まさか、セフレの関係じゃないよな」

 もちろん、希望は首を横に振る。長原から借りたままのCDが見付かり、返却するため長原と会うことを、凉子は矢口から承諾を得ている。ただ、彼女は食事のみならず、 ホテルにも行っていた。

「ホテルは余分な気がするけど、結婚する前に消したい情の一つや二つあってもおかしくないから、必要悪なのか」

「これだけ色恋沙汰があれば、消したい情は一杯あると思うよ。その情を封印するために矢口君も承諾した、という感じ」

 涼子と矢口が結婚することで、これで色恋沙汰に巻き込まれることはないだろう、と希望は思ったのだが、実際には、夫婦喧嘩の愚痴に付き合わされることになる。 それでも、希望は涼子と部署が異なるので、まだ良い方。涼子と同じ職場だった円香は、常に涼子の愚痴に付き合わされていた。

「夫婦ゲンカかぁ。希望が車内でパンダを見たときも、そうではなかった?」

「そう。夫婦ゲンカの憂さ晴らしで、バレンタインデーの夜にヒトカラに挑んで、パンダの着ぐるみを着たまま、 本牧ほんもくに来ていた」

 涼子が言うには、カラオケの殿堂「Pasela」で一人、オールナイトカラオケをしている最中にサブリミナルに翻弄された挙げ句、謎の客からパンダの着ぐるみを渡され、 女子高校生にそそのかされるままに着ぐるみを着て、そのまま横浜から海岸線上り列車に乗り、三田駅から折り返して多摩高本牧駅まで来てしまった、という話だ。 折り返しの下り列車に、希望は大森中央駅から乗務しており、多摩高本牧駅のエンド交換でパンダを見掛け、車掌に声を掛けたら矢口だった上に、 近くにいた運輸担当が内海のため、嫌でも経緯と顛末を聞くハメになった。

「希望も大変だな。矢口君のところって、社宅だっけ?」

「社宅。お子さんもまだ小さいし」

 希望と8歳年下の涼子はまだ30代前半であり、子供もいるから当分は社宅にいる、とは聞いている。子供がいたら希望たちも今も社宅にいるとは思うが、 私情で乗務に穴を空けるのは一度で十分だし、再婚した時には主任に昇格していたので、どちらにしても、希望自身には、子供が欲しいという気持ちがない。

 もとより、希望の実父、品川道生からは、乗客の命を預かる運転士である間は、本人が望まなければ子供を授かる必要はないし、育児に対するサポートも期待するな、 と言われている。利緒の父親は既に他界しており、彼の母親も、希望が息子と同じ運転士であることを理解し、特に何も言わない。子供のことを言うのは親族だが直に諦めるだろう。

 仮に子供がいたとしても、勤務日に急病などで呼び出しを受けたところで、帰区報告が終わるまで子供を迎えに行くことが出来ないばかりか、 乗務中は子供のことを気に掛けることすら出来ない。乗客の命を直接預かる身において、私情を挟むことが許されず、それでは子供が不憫すぎる……その気持ちの方が強く、 通年でフォローアップやメンタルケアを担当する指導主任の道を選んだ。

「社宅にいたとき、よく矢口君と論議したよ」

「矢口君と希望の論議で覚えているのが『憧れで鉄道員になること』なんだけど、掲示板の書き込みを見せてもらったときは、僕も考えた」

 基本的に、矢口と論議する内容は仕事に関係することが多いので、家に帰ってからも仕事の話をするのを躊躇し、利緒に話すことは少ない。それでも利緖に話し、 彼も覚えていることは、希望たちにとって重要な内容でもある。

「あれは、団内でも見事に意見が分かれたからねぇ」

 8年前の2005年4月、社内吹奏楽団が開設しているサイト付属の、吹奏楽ファンや他の吹奏楽団向けの掲示板への書き込みが発端だった。