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掲載日:2013年05月24日

★蒼色の笛

第8章 労組が絡むとやっかいな話

 鉄道業界、とりわけ運転士における師弟関係は強い。運転士養成の実地教習では、師匠と呼ぶ教導運転士から指導を受けるのだが、原則として一度組みになれば、 線路見習い期間中は常に行動を共にする。この時に築かれる師弟関係を維持する運転士も多く、希望のぞみも片倉のことを敬い、 教習中の悩みのみならず、プライベートの相談にも乗ってもらっていた。

 一線一区の海岸線では、基本的に他線区への異動がないだけに、片倉が臨海線営業所へ異動することが掲示されると同時に、大森電車区内で一悶着が起きる。

「2003年後半から2004年の4月にかけて、大森電車区全体で動きが激しくて、柴崎さんも相当苦悩していたんだよなぁ」

「片倉師匠の異動の抗議、帰区報告を終えた後だったから、私も行かざるを得なくて。最後の最後まで、柴崎さんに迷惑を掛けっぱなし」

 道生が副区長の時に区長だったのが柴崎であるが、片倉の異動を巡って、ことに片倉の教え子が中心になって柴崎へ抗議をしている。

 希望が片倉の臨海線営業所への異動を知ったのは、主任昇格者合宿研修の報告書を助役に提出した直後。その時に片倉が言ったのは、 臨海線営業所の教導運転士が現業を離れる時期に来ているが、所属している運転士で教導の認定を受けられる者がおらず、やむなく大森電車区へ教導運転士の異動配属を要請し、 電車区もその話を受けた、とのことだった。

 公私ともに敬っている師匠の異動に、希望は不安を示す。しかし、その不安を見せることが、大森電車区全体に不安を与える。それを払拭させるのも、主任となる希望の役目。 自分も臨海線営業所に異動になることを不安を感じているが、互いにその不安を打ち消すためにも頑張っていこう……片倉は希望に今後の大森電車区のことを託す。

「運転士の師弟関係で、公の方で指導を乞うことが出来ないとなると、不安にならない方が不思議だけど、片倉さんにはその不安を打ち消すだけの心意気があるな」

「今でも語り草になっている、私の50メートル過走のときも、不安を取り除いて、焦ることがないようにしてくれたのね」

 線路見習いの初運転時でブレーキ不調の車両だったとは言え、50メートルの過走ともなると、始末書もので叱責の一つや二つあるのだが、片倉は希望を咎めることなく、 冷静に対処するように指示を出した。むしろ、停車位置修正を実車でいち早く経験することが出来たのだから、不安になることはない、と詰所で希望に諭している。 片倉の指導は厳しかったが、教え子の心をしっかりと汲み取り、それに応じた指導をしており、「副区長の娘」ということで特別扱いをされたくない希望に対して、 片倉は常に彼女の心意気に働きかけてきた。片倉の教え子の中で、一番に真の厳しさで指導を受けたと、希望も感じている。

「片倉さんが異動したことで、本当の意味で巣立つことが出来たとも受け止められるけど、希望はどう思った?」

「片倉師匠、私のことを信じて営業所へ赴任したから、自分にも自信が出来て。だから、指導主任の話が来たときに、悩むことがなかったのかな」

 しばし考えてから、思ったことを希望は口にする。いつまでも人から教えを受けていては成長しない。あらゆる状況においても、冷静になり、的確に判断して対処する。 希望が人身事故の当事者になった時、冷淡なまでにも冷静に対処出来たのも、片倉の指導から離れたことで学び取った部分が大きい。

「片倉さんが希望に託した心意気を、これからも後輩たちに伝えてな。それにしても、片倉さんの異動のとき、労組の動きには呆れたよな」

「ウチの会社の労組、会社側の内情を掴むのが早い割には、会社側に対して弱かったからねぇ。片倉師匠の異動先が営業所になったのも、労組ではなくて柴崎さんの力によるものだし」

 利緒としおが希望に掛けた言葉の半分は、今だから言える愚痴となる。 片倉の異動の実情はトップシークレットであったが、労組側は異動の内示が出る半年前から把握しておりながら、手立てを取ることが出来ずにいた。

「希望も会社側の内情に巻き込まれていたから、柴崎さんへの抗議を含めた話を聞いて、勤務変更の指示を出したのは正解だったよ」

 線路見習いの初運転で過走した希望は、当事者として事情を説明するために、処分を決める会議に出席したが、この席で車両整備体制の不備が浮上し、 それに絡み合う会社側の内部事情を知ることになる。しかし、「会社の顔」でもある希望は、会社側の姿勢を問うことが自らの首を絞めることになるため、 内部事情を知っていても、会社側の動きも労組側の動きも静観することしか出来なかった。その希望ですら、片倉の異動の実情は把握出来ず、 異動の内示が出た数日後に、片倉本人から実情を告げられなかったら、希望も知らないままであった。

 片倉の異動は、本社運輸事業本部と鉄道部の上層部の間で水面下で決められたため、実情を知っている労働組合員はいないはずなのだが、車掌区の分会役員である尾上から、 労組側の動きを知らされた希望は、柴崎への抗議も含めて労組側の動きを利緒に伝える。

 早い時期から、希望が過走した時の車両の情報交換を通して会社側の内部事情を知り、希望と婚約したことで共に片倉から実情を聞いていた利緒は、 希望が会社側の内部事情を知っている以上、労組側から集中攻撃を受けることは避けられず、業務にも支障が出ると判断し、理由を偽ってでも現場から離れるようにと、 内規違反を承知の上で、直前の勤務変更による希望の年休を当直助役に指示した。幸いにも、区長室での抗議と労組の動きは当直事務室にも伝わっており、 事情を汲んだ当直助役が希望の年休を認めたことで、大荒れとなった労組の定期大会での集中攻撃を回避すると共に、会社側の制裁……内部事情漏洩の処分……を受けずに済む。

「でもこれも、希望が過走しなければ、車両整備体制の不備も分からなかったな」

「そうだね。一枚の事故報告書が発端だったから」

 片倉が提出した事故報告書は、大きな波紋となったが、新形式車両の設計変更を始めとする車両整備体制の改善に繋がり、最終的には会社側と労組側が協調路線を歩むことになった。

「いつだったかな、私が運転していた列車に片倉師匠が乗っていて、ホームで立ち話をしたんだけど、営業所で運転士を勤め上げることが出来て良かった、と話していたよ」

 片倉の異動先となる臨海線営業所の一部からは、大森電車区からの教導運転士の異動配属に異論があったが、片倉の人徳と業務への真摯な取り組みで、 その声もすぐに消えたようで、希望と利緒が夜桜を愛がてら浜川崎支線に乗った時には既に、片倉の表情に鋭気と笑顔が戻っていた……「510行路の桜」を見ると1年幸せになる、 と営業所で言い伝えられている通りに。

「ウチの会社と労組は、ある意味、片倉師匠に救われたよね。メトロ東京なんか、未だに二つの労組が対立して、労使交渉でも歩調が合わなくて、 ウチの会社にもとばっちりが来るんだから」

「海岸線のホームドア設置、車両の工事もあるから、メトロ東京と合意しないと進まないからなぁ」

「あなたなら分かるかな? メトロ東京の労組問題って、いつ頃から始まったの?」

 メトロ東京のことを口にした希望は、ふと過ぎったことを利緒に尋ねる。

「僕が大学に入る前から険悪だったよ。国鉄とメトロ東京を見て、労務管理のことを学ぼうと思ったぐらいだから」

 多摩川高速鉄道海岸線の相互直通運転先であるメトロ東京には、二つの労働組合があり、会社側との労使交渉権を持つメトロ東京労働組合……略して「メト労組」と、 元々は運転士が加盟していた地下鉄労働組合……やはり略して「地下労」がある。多くの運転士が地下労を脱退してメト労組へ加盟しても、地下労はメト労組への合併を拒み、 今でも抗議活動を行っている。利緖が高校生だった頃が、メトロ東京の両労組間での対立が最も酷い時期で、いつストライキが起きてもおかしくない状態であり、 国鉄の労組問題も含めて労働問題に関心を寄せた利緒は、進路に法学部がある大学を選んだ。

「そういえば、枚方君から聞いた話なんだけど、メト労組の青年部役員と交際していた人がいて、労組間の軋轢に巻き込まれたんだって」

「どういう情報網なのか良く分からないけど、労組間の軋轢となると、相手の人は地下労関係者?」

 確かに、希望の交友関係に枚方の名前は出てこない。希望は、枚方が市民吹奏楽団に所属し、詰所や休憩室で会った時に、コンクールや互いの演奏会の話をしている、と前置きする。

「彼女が通信教育で在籍した大学が、地下労関係だって」

「そういうことか。でも、通教だと、通年や夜間のスクーリングでなければ、普段は学校に行かないから、関与しないと思うけど」

 利緖が進んだ大学に通信教育部があることもあり、彼は通信教育の事情に詳しい。それを踏んで、希望は、地下労のバックにある過激派の上層部が通信教育部に編入し、 彼女と過激派と接点が出来る、とメト労組青年部役員の運転士が警戒したことも話す。

「年に何回か短期スクーリングがあるし、単位認定試験もあるから、顔を合わす可能性はなくもないけど、運転士側の警戒が強いのは否定出来ないな」

「強すぎて、盗聴器付きの万年筆を彼女に贈って、通話などの傍受をしていたんだって」

「さすがに、それは行き過ぎだよ。そこまでして守りたかったものって、一体なんなのだろう」

「保身だと思うよ」

 案の定、利緖からは驚きと呆れの声が返ってくる。枚方から聞いた話では、下っ端の組合員なら造反しても見逃して貰えるだろうが、青年部の役員ともなると、 上役から圧力が掛り、造反出来ないため、事務長に逆らうことが出来ず、押し切られて秋葉原に行った、とのことである。

「本当に彼女への愛を優先するのなら、仮に盗聴器付きの万年筆を買っても、相手に渡さないと思うけどな。彼女の方はメトロ東京の労組関係は知っていたの?」

 メトロ東京の労組問題を見てきた利緖は、核心とも言える部分を希望に尋ねる。

「枚方君と、尾上君から聞いて知っていた」

「尾上君って、今も車掌区の分会役員だと聞いたけど、そんなにメトロ東京に詳しいの?」

 メトロ東京の労組関係は業界内で有名ではあるが、女性が得た情報の入手先が、揃って自社の社員であることに、疑問を感じた利緖は率直に尋ねると、

「尾上君、彼女の弟さんなんだけど、友達にメト労組の役員をしている車掌がいて、結構詳しく知ったみたい」

希望も意外なルートだと答え、彼もそのルートに納得する。

 メトロ東京の労組関係と裏側の事情を知っても、尚、女性側は運転士を待ち続けた。しかし、運転士から迫られた選択は、学業を取るか、自分との交際を取るか。

「通教であっても、その大学に在籍していた、という事実は消えないから、潔く事情を説明して、交際を止めて良いような気がするけど」

「それは男の見栄なんじゃない? 彼女がいることで株が上がる、という見栄」

 もっともらしい利緖の意見に対し、希望は冷静だ。利緖は、前の交際相手と別れてからは彼女が欲しいという気持ちがなかったため、その感情に気付かなかった、 と苦笑いしながら、女性がどちらの道を選んだか、と希望に尋ねる。

「祈りの道」

「それは、どういう意味?」

 思ってもいなかった道が出て来たことに、利緖は理解出来ていない様相を見せる。

 女性は敬虔なカトリック信者で、自分が進むべく道が示されるように、神に祈ってきた。祈っていくうちに、自分の手が届かない事由で理不尽な思いをするのは自分だけで良い、 他の人にもその思いをさせたくない、と考え、更に神に祈り、祈りの道を進むことを決意した。

「カトリックで祈りの道だと、修道院になるのか」

「それも、トラピスチヌ」

 トラピスチヌ修道院は、函館にある厳律シドー会に属した修道院。俗世の人間が立ち入ることの出来ない聖域で、隠棲と沈黙のうちに祈り働きながら、キリストを通して、 全ての人々の救いのために、生涯奉仕を続ける。志願期、修練期を経て、共同体に受け入れられて3年の有期誓願期を立てたのち、生涯を修道院で送ることになる。 トラピスチヌ修道院に入るのにも、教会の推薦があり、修道院側と数回の手紙や面接を経て、初めて志願者となるため、 女性の「この世を清らかなものにしたい」という意志は本物であろう。

「それに比べると、私なんか世俗的なんだけどね」

「希望が世俗的なら、僕はどうなんだか」

「それは似たもの同士ということで。でも、労組の青年部って、確かに時間を取られるのよね」

 自社の労働組合だけならまだしも、私鉄総連に加盟していると、内部組織の青年女性協議会の動員もある。両方の動員が同時に掛かることもあり、 白血病と闘う奥沢への見舞いも満足に出来なかった。そのことが希望にとって、今でも悔やまれる。