文芸処・椋岡屋

HOME > 図書室 > 蒼色の笛 > 第10章

図書室

掲載日:2013年05月24日

★蒼色の笛

第10章 犬も分かる臨海線~枚方の異動を巡って

 片倉の話が出てから、 何か気にしている利緒としおに気付いた希望のぞみは、

「何か聞きたそうだけど」

さりげなく尋ねる。

「ここまで情報通の希望なら分かりそうだな。枚方君がウチの区に来た理由って、何だったの?」

 片倉が臨海線営業所へ異動するに当たって、大森電車区内で調整したが、定期昇格と重なり所定数の運転士が揃わず、代わりに臨海線営業所に対して、 大森電車区に異動出来る運転士がいないか打診したところ、枚方が家族の看病に専念したいため退職したい旨話していたことから、 事情を汲んだ臨海線営業所が枚方に大森電車区への異動を打診し、枚方もそれに応じた……区内ではそういう話になっている。

「確かに、営業所は拘束時間が長いけど、在宅での看病という話なんだろうか」

「いや、病院。大半の病院が完全看護になっているから、ちょっと考えるとおかしな話なんだけどね」

 素朴な疑問を率直に尋ねる利緖に、奥沢が入院していた時の話に加え、総合病院で病棟看護師を務めていた母親の恵理から聞いた話として、 食事などの介助が必要な場合でも病院職員が行うことが多いため、定められた面会時間内で家族が出来ることは少なく、病院に入院中は世話と言えても看病とは言い難い、 と希望は説明する。

「洗濯物の交換とかあるだろうけど、それだけで退職を考えるものだろうか」

「まぁ、ICUに居るともなると、人間心理的に常に傍にいたい、と思うからね」

 ICUだと面会出来るのが家族のみで、面会時間も一般病棟以上に限られる、とも補足し、枚方がいう家族がICUに居たことも話す。

「より限られた時間に面会をしようと思ったら、交代勤務だと不都合だと思ったのかぁ」

「ただ、枚方君がいう家族がまだ恋人ではなかった第三者の女性、というのを他から聞いたのね」

「やっぱり、希望の情報網は凄すぎ」

 希望が情報を得る先は、たいてい吹奏楽関係者だが、数少ない女性乗務員ということで、周りの方から話を持ちかけられ、世間話が世間話に終わらないことがある。

「その、まだ恋人ではなかった第三者の女性、というのが非常に引っ掛かるんだけど」

「あなたもそこに引っ掛かるよね。きっかけは線路内に迷い込んだ犬なんだけど」

 枚方が浜川崎支線の乗務に入っていた夜、線路内に犬が迷い込み、保護して飼い主の女性に引き渡したのを機に、犬の散歩を通して飼い主と交流を深める。 しかし、飼い主には交際相手がおり、相手は枚方の先輩。枚方の存在を疎ましく思った交際相手は、親を通して飼い主に縁談を持ちかけ、更に枚方に濡れ衣を着せた。

「濡れ衣って、一体何?」

「交際相手である先輩が誤って飼い主の犬を轢いたんだけど、それを枚方君が轢いたように仕向けて。営業所のことだから、情報が行き渡るのが早く、枚方君もすぐに分かったって」

「恋人が飼っている犬を轢いたとなれば、合わせる顔もないだろうから、都合の悪い人間に押しつけた、ということか」

 飼い主は交際相手を疑うことなく枚方を拒否するが、交際相手の罠と知り、罠に填めた人間と結婚することの侮辱、信頼していた人を裏切った罪悪感で、自殺行為を図る。 飼い主は一命を取り留めたが、しばらくは意識不明状態が続き、責任を感じた枚方は看病に専念したいと思い、退職を考えた。

「飼い主と枚方君の先輩が結婚前提で付き合っているのなら、その先輩が世話なり付き添うなりするのが普通だと思うけど」

「最初は頻繁に面会に行っていたんだけど、もう一匹の飼い犬が絡んでしまって」

 ここまで来ると、単なる噂話にしかならないが、希望は続きを話す。

 飼い主の家では、二匹の犬を飼っていた。一匹が線路に迷い込んだゴールデンレトリバー。もう一匹が柴犬である。飼い主が自殺行為を図った直後に、柴犬の方が、 枚方が運転していた列車に入り込み、飼い主の自宅へ連絡したことで、枚方は飼い主の自殺行為を知る。

「柴犬は自分のテリトリーを離れるとパニック状態になる、と聞いたことがあるから、枚方君が運転している列車に入り込んだのが不思議だな」

「あと、臨海浜川崎で運転士が交代する時間帯に、戻らぬ飼い主と枚方君を待ち続けたのね。確か、508行路と言っていたのかな」

 管轄する路線距離が短い臨海線営業所では、乗務行路の数も少ない。また、臨海線と浜川崎支線の接続駅である臨海浜川崎駅は、一般道を挟んで改札が分かれており、 運転士……浜川崎支線はワンマン運転……も一般道を渡って浜川崎支線の乗務に入る。そのため、利用客によっては運転士の交代時刻も分かり、飼い主もその時刻を把握していた。

 戻らぬ飼い主を臨海浜川崎駅で待ち続け、衰弱した飼い犬は臨海線営業所に保護され、枚方の腕の中で息を引き取る。枚方が柴犬の死を父親に伝えようとした時に、 交際相手と鉢合わせし、口論の末に、交際相手は枚方に飼い主の看病を押しつけた。故に、枚方は飼い主の看病をすることになるが、彼女は依然、意識が戻らない状態であり、 関係は友人のままだった。

「それって、希望から見たら、枚方君の異動って都合が良すぎない?」

「当然。私なんか、奥沢君のときは運転士養成が最優先だったし、小牧君のときだって、配置転換のことを言われても応じなかったのに」

 枚方が大森電車区に異動するのと同時期に、希望と婚約した利緖にとっても、枚方の異動を納得していない。事務職を含めた配置転換も考えた方が良いと言われたのは、 小牧を亡くして程ない頃だったが、希望は運転台を下りることも、大森電車区を離れることも選ばなかった。

「今の枚方君の話、結婚を約束しながらも、お見舞いもままならない状態で奥沢君を亡くしている希望に納得しろ、というのは無理に等しいよ」

「それもだし、主任昇格試験に合格していながら、私情で異動することで、異動後の臨海線営業所のことを考えていたのかと、私は納得出来なかった」

 主任昇格試験を受ける前ならともかく、と枚方へのあがらいの気持ちを滲ませる。自分が仕事から離れることで、 電車区全体に迷惑を掛ける……正式配属になって早々に私情で休職したことで、希望は大森電車区における自分の立場を早くから痛感している。そのことを、 当時の区長だった柴崎が評価し、事故再発防止委員会での活動も含めて、主任推薦昇格の打診をした。それだけに、枚方の異動の実情を知った時、希望の心の中には、 怒りに似た感情がわき上がった。副区長だった道生も、口にはしなかったが、希望と同じことを考えていたようだ。

 一連の騒動を思い返しながら、

「私んちって、集合住宅続きで、動物を飼ったことがないから分からないんだけど、犬にとっての幸せって、何なのだろうかなぁ」

ふと過ぎったことを希望は口にする。

「犬によって使命が変わるけど、飼い主の愛情の下、忠実に生きて、使命を果たすことになるのかもな」

 使命を果たすのは犬に限らないけど、とも利緖は語る。

「飼い主と枚方君の愛情を感じたから、枚方君にも忠実になって、臨海浜川崎で待ち続けたんだね」

「そうだな。犬も乗務員のことが分かっていたんだな」

「臨海線だから十分考えられる。というより、臨海線ならではの話だね。新人が入るとお客さまもすぐに分かるみたいだし」

 枚方の話に一段落が付いたところで、希望は帰宅してから何も口にしていないことに気付き、利緖にも何か飲むかと伺う。

 コーヒーを頼まれた希望はキッチンに行き、二人分のコーヒーを入れ、リビングに戻るなり、

「そうそう、今日のお昼に、志穂の一家と会ったよ」

嬉しそうに話し、利緖にコーヒーを差し出す。週半ばの昼間に、日勤同士の夫婦と子供に遭遇することは稀なのだか、志穂たちは所用で合わせて年休を入れて、 大森中央駅にも足を運んだところで、希望と遭遇したらしい。

「志穂さんのご主人って、電気だっけ?」

「今は管理職だけど、入社して以来ずっと電気畑」

 志穂から、結婚前提で付き合っている人がいる、と聞かされたのは、6年前の、2007年の7月。車両部の人間がどうやったら、他社の電気関係の人間と出会うのか。 馴れ初めはありがちなパターンだったが、彼女から相手の勤務先を聞いた時、希望は驚愕した。