文芸処・椋岡屋

HOME > 図書室 > 蒼色の笛 > 第11章

図書室

掲載日:2013年05月24日

★蒼色の笛

第11章 鉄道と電気~志穂の愚痴り大会

 2007年7月、希望のぞみ利緒としおの実家に行った帰りに、 横浜のデパートに足を運ぶと、志穂が洋菓子のショーウィンドウを眺めているところ。これは驚かせるしかない。希望は志穂に気付かれないように、彼女に忍び寄る。

「なんで希望がこんな場所にいるのよ」

「それはこっちの台詞」

 驚く志穂に、希望は澄まして答える。

「これと同じシチュエーション、前にもなかった?」

「あった。それもここで」

 彼女たちは、過去にバレンタインデーに贈るチョコレートを買いに来た時に、今来ているデパートで遭遇している。その時の理由は、「仕事や講義の後に、 新宿や渋谷に行く気力はなく、だからと言って大森周辺だと同僚たちにバレる。だったら、職務乗車証で行ける横浜」という、至って単純なものだ。

 利緖が泊まり勤務でそのまま職場に行き、自分は時間が有り余っている希望は、半ば強引にカフェに連れられて、志穂とお茶することになった。まずは互いの行動の詮索から始まる。 もっとも、これはいつものことだが。

「希望が再婚して、もう3年になるんだっけ」

「6月でちょうど3年。あっという間だね。それより、志穂は結婚する気があるの?」

 自分の生き様を見てきたから、志穂自らの意志では結婚しないのではと思っているが、35歳ともなれば、少しは考えが変わっていそうな気もしている。

「実は、1月から付き合っている人がいて」

 一瞬、耳を疑ったが、

「私に黙っているなんて、水くさいなぁ。相手の人は社内なの?」

希望は詮索していく。

「社外。付き合った人全員が社内の希望じゃないんだから」

 志穂の言葉に撃沈するが、伝え聞いた話では、他社でも乗務員同士の社内結婚があるらしい。ただ、多摩川高速鉄道では絶対数が少ないため、比較のしようがなく、 希望のケースが稀、ということになってしまう。

「それで、彼は一般の人?」

「同業者だけど、電気」

 馴れ初めが同僚の結婚式の場、というありがちなパターンだったので、てっきり一般企業の社員だろう、と思っていただけに、同業者同士の車両と電気、 という組み合わせに、正直に「変わった組み合わせ」と志穂に言うが、志穂も同様に、自分でも驚いていると笑う。

「彼と付き合うようになって、色々と電気関係の話を聞くのだけど、ため息が出ることばかりで」

「たとえば?」

「希望なら、『メンテナンス系』と聞かれたら、どこのセクションを思う?」

 唐突とも言える志穂の問いに、希望は少々考えてから、

「私は電車の運転士だから、まずは、電気。次いで信号、線路」

あくまでも運転士の考えと強調して、彼女の問いに答える。

「電車の運転士の希望なら、そう答えると思っていたけど、一般的には線路整備としか思われていなくて、電気のことは忘れられていると言っても、過言じゃない」

 志穂が嘆くのは、鉄道業界の動向本でさえ、保線の項目は線路整備が大半で、電気に関しては「トロリー線の保守」の一言だけしか書いていない本もあるため。 確かに、僅かな線路の歪みが脱線の原因になり、「安全を守る」意味ではそちらが前面になるから、そう受け止められても仕方がない。それ故、列車、 特に電車運行に電気が密接しているのを分かっているのは、業界関係者か、鉄道会社が出している安全施策のパンフレットの類を読んで把握している人ぐらいだろう。

「電気が止まると、電車はもちろん、信号や駅設備も止まってしまうんだけどね」

 希望はふと、1994年12月に発生した、JR東日本の新宿変電所火災のことを思い出す。火災が起きた新宿変電所は、JR東日本が自社発電した電気を、 電車走行に必要な電流と電圧に変電するのだが、新宿変電所へ送電する変電所から高電流が流れて火災発生、同時に池袋の変電所でもブレーカーが作動した。 そのため、山手線を始めとする幾つかの路線への送電が出来なくなり、列車運行が出来ないばかりか、駅設備にも影響が出て、照明が消えた駅も多数ある。 翌日も平常電力を確保出来ず、山手線は6割程度の運行本数だった。火災が発生したのが23時前だったため、当時、駅務係で深夜勤務規制があった希望は難を逃れたが、 志穂は大学のサークルの忘年会参加で、見事に巻き込まれた。

 他にも、2006年9月に、東京駅にある京葉線の変電所で火災が発生し、信号用の配電盤も焼失したため、代用手信号で列車の運行をしている。 高電流を扱っているだけに、一つ間違えると、大規模な事故となる。

「変電所火災を未然に防ぐように、電気関係の社員が常にメンテナンスをしているのに、彼らの存在はどう思われているんだろう」

「業界関係者は意識していると思うけど、それ以外は微妙だね」

 志穂の問いに、希望も考える。会社によって建物が異なるが、変電所自体は線路際にあり視認は出来る。しかし、それが鉄道会社の変電所であることを、 どれだけの乗客が分かっているのか。中でメンテナンスをしている社員や協力業者のことも、おそらく知らないのではないか。

「架線なら目に付くから、ある程度は分かるけど、その架線の保守も大変だからね。もっとも、架線支障は飛来物の付着などの外部要因が多いから、予測がつかないけど」

 架線切断は内部要因の時もあるが、と志穂は付け加えるが、

「架線切断は、影響力が大きすぎるからね」

電車の運転士である希望には他人事ではない。

 希望は運転士養成の時に、変電所の見学に行っている。その際、講師から、エアセクション……送電区間の区切りで、架線が二本張られている区間……では絶対に停止しないように、 と指導を受けた。A変電所からの送電の終わりは電圧が低いのに対し、B変電所からの送電の始めは電圧が高いため、停車した時、エアセクションにパンタグラフが来ると、 パンタグラフによって高電流が電圧の高いところから低いところへ流れ、ショートして架線を切断するためで、切断に要する時間はほんの数秒。 エアセクションの部分には標識があるとは言え、信号待ちや非常停止時に、エアセクションの手前で停車出来るのか、と新たな不安が生じた。

「研修の度に言われるんだけど、たまに忘れる人がいるからねぇ。ウチの会社ではそういう事故はないけど、つい最近、他社では実際にあったし」

「それを言われると、彼の立場がないんだけど」

 深い意味で言った訳ではないだけに、志穂の言葉の意味が分からない。

「ウチの彼、その他社だから」

 架線切断事故を起こした他社……それだけで、希望は驚愕し、返す言葉が見つからない。やっとの思いで発した言葉が、

「散々『北海道に戻りたい』と言っていたのに、JRの社員なの?」

であるのには理由がある。

 志穂の父親が動労所属の国鉄職員で、国鉄末期の「血の入れ替え」で北海道から東京に転居してきた。官舎に住んでいたこともあり、北海道での友人は、 親が国労所属の国鉄職員という人が多く、JRに採用されなかった人も多い。志穂の父親はJRに採用されたため、彼ら彼女らに裏切り者呼ばわりをされてきた。 JR社員の娘という理由で謂われのないことを言われるのは不憫……親の意向もあり、志穂は私鉄沿線のキリスト教主義の私立校、聖ルカ学園に編入するが、 交通地理に関心を持ち、地理学科のある都内の私立大学へ進学する。

 過疎化するふるさとに心を痛め、北海道職員の公務員試験を受けたものの、二次試験で不合格となる。学んだことが生かせる企業の採用試験を受けていき、 就職先に選んだのが多摩川高速鉄道だったが、志望部署を開発事業部にしたのにも係わらず、現場研修が終わって配属されたのは車両部車両課。 ふるさとの人間から裏切り者呼ばわりされた志穂の心には、「鉄道会社に勤めても鉄道員にはなりたくない」という思いが常にあり、ことある毎に、 北海道に戻りたい、と希望に漏らしていた。

 そんな志穂を一体何が変えたのか、希望は率直に尋ねる。

「本線に新車を入れるときに、ふるさとの活性化よりも、『お客さまの安全を守る』ことが重要だと痛感したから」

 彼女がその思いに至ったのは、運転士として働く希望の姿を見続けたことが一番の理由だが、車両故障によって列車が止まることで、まず乗客に多大なる迷惑を掛け、 故障の処置によるダイヤ遅延で、度を超す回復運転をして事故を起こされたら、乗客の安全が守れない。 そのためには車両故障を減らしていくことが重要……多摩川本線にも新形式車両を投入する際、現状確認で営業列車に添乗中に発生した車両故障を受けて、 自分の認識を改めた。それは車両に限ったことではなく、他社、他業種であっても同じ。同じ考えを持っている人なら、どこの会社の人でも付き合うが、 同じ考えを持っている人に出会ったのが、たまたまJRの社員だった。

「なるほどね。でも、架線の話を出したのは志穂。それは墓穴を掘る、だから」

 突っ込まれて苦笑いする志穂を見ながら、彼女が鉄道員の意識を持ったことに、希望は運転士を続けてきて良かったと、素直に思う。

「架線と言えば、たまに検測行路に当たるけど、それが架線を始めとする検測だと分かるお客さまって、どれぐらいいるのかなぁ、と思うよ」

「新しい検測車は割と目立つ外観だけど、事前に走行を知らせている訳じゃないから、『何か変わった電車が来た』ぐらいじゃないかな」

 所詮はその程度だよね、と希望はため息をつく。それでも、新しい検測車を導入してから、会社が公式サイトやパンフレットで検測車とその役割を取り上げ続け、 幾分は理解してる利用客が増えているのは、実際に運転することで感じ取れる。

「電気の重要性を一般の人が分からなければ、彼も含めて、電気関係の社員はやるせないよ。それでいて、停電事故が起きると、全てが彼らに降りかかって来るから、 かなりの責任の重さを感じていると思う」

「乗務員以上に責任を感じているかもね。会社側も、その辺りのことをもっとアピールしても良いと思うんだけど」

 志穂の言葉にどう応えれば良いのか戸惑いながらも、希望も思ったことを口にする。二人は同時にため息をつき、ケーキを食べていく。気を取り戻して、互いの近況を話していたが、

「希望って、今、社宅だよね?」

それまでの話と脈絡もなく、志穂が尋ねる。

「社宅だけど、あと1~2年ぐらいでマンションを購入しよう、という話はしている」

「マンションを買うとき、変電所の隣は止めた方が良いよ」

「それはどういう意味で?」

 彼女のアドバイスの真意が今ひとつ理解出来ない希望は、志穂に聞き返す。

「それは希望の方が分かるんじゃない? 変電前の電流と電圧を考えたら」

「あー、そういうことね」

 電車の運転士である希望には、それだけで十分通じる。電車の走行に必要な電圧は、直流区間で1500V。これは変電後の数字であり、変電前は万単位。 一度変電所火災が起きたら、変電所の敷地内で収まるとは限らず、実際、隣接する建物に延焼した例がある。

「そもそも、鉄道会社の変電所って線路際が大半だから、言われなくても最初から避けるよ。家に帰ってまでも電車を見たくないから」

 その考えは、鉄道を趣味にしていない希望ならではだ。夫の利緖も鉄道が好きで鉄道員になったのではないので、希望と同じ考えであり、それ故、少々高くても、 線路際から離れた、駅から至近の場所でのマンション購入を検討している。

「希望らしいというのか、何というのか」

「やっぱりそうなる?」

 二人で笑いながら、惚気話を含めて、2時間ほど話し込み、日が暮れだした頃にカフェを後にして、それぞれの帰路につく。