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図書室

掲載日:2013年05月24日

★蒼色の笛

第12章 現場に供えられた花

 結婚が遅かった割には既に子供がいる志穂から、母親同士の会話で、自分の職業のことを聞かれるが、仕事内容を話したところで理解する人は少ないと、 愚痴を聞かされたことがある。興味が無いなら無いで構わないし、趣味で聞く分も良いが、興味本位で聞くのは止めて欲しい、とも言っていた。

「興味本位……僕たちが運転士だと分かると、必ずと言って良いほど、人身事故のことを聞きたがるよな」

「私も、必ず聞かれる」

「運転士にとって、『人身事故』という言葉は、ガラス箱の中にあるものだけど、人は平気でそのガラスを割って、心に入り込んでくる」

 運転士である以上、人身事故は避けて通れない道でもあるので、仲間内で状況を話す時のさじ加減も分かっているが、それでも、乗客として乗って内部情報が分からなかった同僚から、 無神経な言葉が掛かることがある。

「一般の人が聞いたところで、何をする訳でもないのにね」

 二人とも人身事故に遭っているため、希望のぞみの嘆きに似た深いため息に、 利緒としおも同調する。

 人身事故の場合、自動車だと相手側に重大な過失があっても、加害者になって罰則を受けるが、鉄道は非常制動に過失がなければ、法的な罪に問われないことが大半どころか、 鉄道会社側が遺族へ損害賠償を請求する場合もある。逆にそのことが、心の中で重い十字架を背負うことになる。

 不可抗力の事由で人を死なせて平気な人はいないのに、人を死なせても罪に問われない……言いしれぬ、問われることのない罪の重さ。無惨な状態での被害者救出で負うトラウマ。 時には周りから責められたり恨まれたりしても、耐えなければならない茨の道。それでいながら、過失がないことを主張するために、事故相手を責めなければならない葛藤。 いじめを苦に自死を求めた結果や、線路内にいる人を救助しようとした結果での事故ともなると、運転士の苦悩は更に重くなる。程度の差はあるものの、 それらは、実際に事故に遭わないと分からない。分からないが故に、周りは簡単に人身事故のことを問う。もっとも、運転士生活で一度も事故に遭わない人もいれば、 複数回遭う人もいるので、運転士の中でも、人身事故に対する温度差があるかもしれない。

「中には、事故に遭ったことによる精神的な苦痛から抜け出すことが出来なくて、運転台を下りる人もいるだけに、あなたが運転台から下りないか、私、不安で仕方なかった」

 夫婦であっても、互いの事故を口に出すことは殆どない。言えるとしたら、大森電車区では、道生が中心になって、事故列車の運転士のメンタルケアを始めたことで、 利緒は運転台を下りることなく、助役になるまで運転士を勤め上げることが出来た、である。

「小牧君が亡くなったとき、私もメンタルケアを受けたけど、あのピンクのチューリップ、誰が置き続けたのだろう」

 メンタルケアという言葉に、希望は抱き続けた疑問を口にする。

「ピンクのチューリップって、南大井の?」

「そう。忌引休暇が明けた日に、たまたま宮浦君が乗っていて、小牧君への追悼なら、普通は花束だよねって話していたのね。吹奏楽団の仲間に聞いても分からなかったんだけど、 あなたは置いた人を見たことがある?」

 希望の問いに、利緖は、自分は運転中に花を手向けている人を見た、と言いにくそうに答える。

「私は知らないまま今日まで来ているんだけど、誰だったの」

「ウチの区の、ほんの一部の人しか知らない話なんだけど……本当に話してもいい?」

 更に尋ねる希望に、利緖は答えるのを躊躇っている様相を見せる。あの花で苦しんできた以上、事実が分かるのなら知りたい。希望は黙って頷く。

「南大井のチューリップ、三田駅務区に助役で行った根津君が運転士時代に遭った事故の被害者への追悼なんだけど、花を手向けたタイミングがあまりにも悪すぎて」

「根津さんの事故って、いつ頃の話?」

「希望の休職中」

 休職中の事故ともなると、自分には知りようがない。しかし、ごく一部の人しか知らない話を、利緖が知っている。その理由は何か?

「根津君の事故の相手が、相手だったから」

「それは、根津さんの関係者、と考えていいの?」

 相変わらず答えることを躊躇っている利緖を見る限り、聞かない方が良いのか? 利緖も希望の心持ちを察して、しばし間を置いてから答える。

「彼の親友が自殺目的で列車に飛び込んだけど、その列車を運転していたのが、根津君」

 根津の事故相手の関係を聞き、衝撃の強さを覚える一方で、自殺行為を図ることには必ず背景がある……その辺りの事情を知らないか、と利緖に伺う。

「希望なら分かるかも。根津君の親友、うつ病だと言っていたから」

「うつ病なら、十分納得できる」

 根津の親友がうつ病になった背景は、IT企業特有の納期に追い詰められたことと、人間関係によるものだが、うつ病になる背景は様々であり、一人一人異なる。 同時に治療法も一人一人異なるが、基本的に休養、投薬治療、医師との対話を含む精神療法で治療を進める。治療の過程で、 回復期に「揺り戻し」とも「ぶり返し」ともいう状態が見られることが多い。身体の面では回復に向かい、行動力も上がるため、何かのはずみで強く落ち込むと、 発作的に自殺行為を図ることも見受けられる。しかし、周りがその行為、また患者の存在を否定することで、患者は生きる価値を見いだすことが出来なくなり、 再び自殺行為を図り最悪の結果、死となる。希望も治療過程での揺り戻しで思い詰めたが、偶然にも、志穂が様子を伺いに来たことで、揺り戻しから抜け出すことが出来た。

 希望から説明を受けた利緖も、根津の親友が一度自殺行為を図った時、周りが距離を置いたことで、存在を否定されたと思ったのではないか、と考えたことを話す。

「根津さんも、距離を置いた側になるのかなぁ」

「最初は見守っていたけど、後ろ向きになってばかりだから、距離を置こうと思った矢先での事故、という話」

 親友に対する根津の対応に、希望は、根津が花を手向けた理由をそれとなく感じ取る。根津宛に、親友から感謝の意を伝える手紙があったのではないか。 利緖は彼女の素早い理解力に驚く。

「でも、本当に感謝の気持ちがあるのなら、親友が勤める鉄道会社で飛び込み、という形で自殺行為をしないと思うけど」

 人生の終止符を打つのに、人は立ち入ってはならないはず。他殺であろうと自死であろうと、どの手段を執っても、周りに迷惑を及ぼすのは変わらない。 鉄道自殺ともなると、利用客に多大なる迷惑を掛けることは、利用客なら容易に分かるし、親友が鉄道の運転士となれば、現場の話の一つや二つはあるだろう。 もっとも、社会的に大きな影響を及ぼすことを確信して、列車に飛び込んだり、線路に立ち入ったりする例もあるが。希望は持論を展開すると、

「根津さんが花を手向けたタイミングって、何がきっかけだったの?」

最も気になることを利緖に問う。彼は、希望の問いに、再び、答えることを躊躇している様相を見せる。それでも答えないと、彼女の心に収まりが付かないだろうと判断したのか、

「小牧君が亡くなったとき」

それだけ、利緖は告げる。

 親友を亡くした時ではなくて、小牧がこの世を去った時。どの様な感情で根津が花を手向けたのか。真相を聞くことで、押さえ込んでいたものが込み上げるかもしれない。 しかし、いつまでも押さえ込んだら、心の傷が癒えぬまま生きていくことになる。意を決して、希望は真相を聞く。

「希望の読み通りなんだけど」

 そう前置きすると、利緖は根津が花を手向けた理由を話す。親友を自ら運転する列車で死なせたことで、心を病みそうになり、精神科にも行っている。その一方で、 親友からの手紙を遺族から渡されたものの、根津は読む気になれず、封も切らなかった。小牧が鉄道自殺を図る女性を引き留めようとして、彼はこの世を去るが、 奇しくも、事故現場が、根津が事故に遭った現場と同じ。偶然とは思えず、親友からの手紙を読み、感謝の気持ちが綴られたことに応えようと、 南大井駅に一輪のチューリップを手向けてきた……。

「ふーん、そうなんだ。そうなると、そこには私の立場は含まれていない、ということになるね」

「希望の立場って?」

 初めて利緖に見せた表情なのだろう、彼の表情にも困惑の色が濃く顕れている。

「命を捧げた駅員の家族が同僚ということ。話を聴く限りでは、親友への追悼であって、小牧君への追悼ではないんだから」

 自社の社員の死亡事故で、大森電車区内での事故なのだから、情報は行っているはず。利緖も、根津の話の中には、希望のことは含まれていなかった、と言う。

「やっぱり……根津さんには本当に申し訳ないんだけど、自身の罪を償うことばかりを考えて、大切な人を事故で失った側の苦悩は、一つも分かっていないよ」

 小牧の死亡事故はニュースや新聞で報道されたこともあり、沿線住民からの献花が相次ぎ、ホームに供えられた花束を見た運転士の何名かも、事故現場を意識したことで、 南大井での停車時に若干の過走をした。そのため、電車区側はホームへの献花を控えてもらうように要請し、駅側も改札口に献花台を設けて、現場を訪れる人への周知を行っていた。

 一方で、年末に年休を取得していた同僚が多数いたことで、配偶者の死でありながら、内規通りに忌引休暇を取得出来なかった希望は、あらゆる手続きに追われるうちに、 遺族の立場で事故現場を訪れることが出来ず、不安になりながらも勤務に戻る。

 事故後の初めての乗務で、当直助役から、上りの南大井停車で私情を感じた時点で交代要員を手配し、安全を最優先するようにと区長から指示が出ている旨伝えられ、 希望もそのつもりで乗務前点呼を受け、乗務に入る。

 三田ゆきの上り各駅停車の運転に入り、大森中央を発車する前から涙が溢れてきたが、運転士の宿命と言い聞かせてマスコンハンドルを握るものの、 南大井での停車時に下りホームに目が行く。視線の先にピンクの花らしきものがあったことで、小牧が転落した場所を強く意識し、身元確認のことも鮮明に蘇り、 5メートル程の過走をした。場所を意識し過走したのでは、下りは通ることすら出来ない。そう判断した希望は、輸送司令へ交代要員の手配を要請する。

 交代要員の運転士は、希望が下りで南大井を通る前に列車に乗り込み、その場で運転を交代したが、同僚の運転で南大井に停車する時、 線路にうずくまる小牧の姿が見えた希望は顔を背け、自分一人で乗務が出来ない辛辣な思いを抱えながら、大森中央に戻るなり、電車区に戻った……。

「あのとき、お父さんたちが居なかったら……私、本当に……運転台から……」

 それきり口にすると、希望は利緒の胸元で泣き出す。結婚してから、彼の前で涙を零すことはあっても、号泣することはなかったのに。

 どのぐらい泣いたのか分からない。ただ分かるのは、泣いている自分を利緒が優しく抱き、辛い思いを受け止め、共有してくれていること。

「ごめんね、こんなに服を濡らしちゃって。久し振りに泣き虫になったね」

 泣きはらした希望は、ようやく顔を上げる。

「希望の涙なら、いくらでも濡れても大丈夫だから、気にしないって」

「あなたに泣き顔を見せたくなかったから。それでね、メンタルケアの話し合いをしたときに、途中であなたも来てくれて、みんなが私のことを護ってくれることに、 運転台から下りたくないと思ったのね」

 自分では泣きはらしたつもりでも、傷口から血が流れるかのように瞳から涙が零れ続ける。ならば、涙を涸らして辛さも押し流そうと、希望は言葉を続ける。

 事件ともなった人身事故の遺族が乗務で事故現場を通るという、異例の事態を重く受け止めた区長の柴崎は、 休日であるのにも関わらず、副区長の道生と共に当直事務室で待機しており、希望が帰区すると同時に、対応を話し合う。併せて、メンタルケアサポートチームを発足させる際、 庁舎内にいる指導主任の呼び出しを掛けたところ、手が空いていたのが利緒であった。結婚して間もない時期だっただけに、最初のうちこそ戸惑いがあったものの、 希望が電車区に来てから慕ってきた利緒がメンタルケアを担当することに、強く護られている運命を感じ取り、全てを彼に委ねる思いでメンタルケアを受けていく。

 信頼する利緒の運転により、事故現場を通ることに少しずつ慣れていき、やがて希望の運転に替わり、その傍らで利緒が見守る。メンタルケアを受けている間の乗務も、 状況に合わせた行路に振り替える等、職場の寛大な理解と協力があり、遺族の立場で事故現場を訪れて事故を受け止めたことで、半月程で希望一人で南大井を通ることができ、 周りからの信用に応えるべく、後にメンタルケアサポートチームの一員となった。

 彼女の心の傷口に触れたと思ったのだろう、

「辛辣な思いで負った心の傷は簡単には癒えないのに、その傷口を開いてしまって、本当にごめんな」

利緒は希望の頭を抱き寄せながら詫びる。

「確かに、あの日のことを思い出して辛い気持ちになったけど、今でもこの辛さを共有してくれるのは、あなたとお父さん。だから、敢えてあなたからの話を聞いたのね」

 涙混じりの希望の想いを受け取った利緒は、もう一度、希望を優しく抱き、

「今日はたくさん泣いて良いよ」

彼女の耳元で囁き、希望も頷きながら、今まで押さえ込んでいたものを流していく。

「南大井のチューリップ、2月になったら見なくなったんだけど、何か理由とかある? これに関しては、あなたの方が詳しそうだから」

 ようやく落ち着いたところで、もう一つ気になることを尋ねる。希望にとっては微妙な話、と前置きしてから、

「南大井のチューリップを見た落合君が、根津君から話を聞いて、命日に花束を捧げようと、同期入社の車掌に提案したみたい」

利緖が大森中央駅の休憩室で耳にした話を、希望にも伝える。併せて、根津が利緖に事故の相手を話した時に、根津に希望のことを話した旨伝えるが、 利緖が口にした運転士の名前に、希望は首を傾げる。

 大森電車区に落合は2名いるが、一人は希望の同期で、もう一人は3年前に電車区に来た若手。花が手向けられた時期からして、同期の落合であり、 根津より立場が上の利緖の言葉ではなくて、後輩にあたる落合の言葉で、根津が花を手向けるのを命日に変えたのは間違いない。 事故のことを共有してくれると思って利緖に話したのに、区内に関係者がいることを言われ、花のことを闇に否定された思いになり、 罪を償う気持ちも否定されたと思ってなのか。思ったことを率直に利緖に話す。

「確かにそれは言えるから、僕にも悪い部分がある。でもやっぱり、希望のことは考えて欲しかったな」

「きっと、根津さんの事故のとき、誰も花を手向ける人がいなかったのかもね。だから、『現場に供えられた花』を見ることで、関係者の辛さが増すことを知らなかったのかも」

 その言葉は、実際に、事故で大切な人を亡くした人から出る言葉。それは、鉄道事故でも、震災や事件でも、日常生活における交通事故でも同じ……。

「ともかく、今の話、聞かなかったことにするね。その方が、私もあなたも、精神的に楽だと思うから」

 凜とした表情で、希望は意を伝える。これで、自分も、利緖も、辛い思いを流すことが出来るだろう。

「希望がそういうのなら、僕も根津君の話を聞かなかったことにする。それで良い?」

「承知」

「希望。家に居るときは、普通に返事をしような」

 利緖の指摘に、希望は瞬時に焦りを感じる。

「あっちゃー、またやってしまった。ついクセで言っちゃうのよね。それでいつもお父さんに怒られるんだけど」

 希望が言い訳をしていると、電話の着信を知らせるメロディーがリビングに流れる。