文芸処・椋岡屋

HOME > 図書室 > 蒼色の笛 > 第13章

図書室

掲載日:2013年05月24日

★蒼色の笛

第13章 五年前の誓い

 こんな時間に誰だろう。希望のぞみはソファから立ち上がると、電話機の子機を手に取り、応答する。

「はい、小杉です……あ、お父さん。元気にしている?」

 噂をすればなんとやら、というタイミングの、道生からの電話だ。

「元気にしているよ。近いうちに、実家に来ることってある?」

「用事があるなら、明後日、明け番だから行くけど」

「特に用という用はないけど、利緒としお君も助役の立場で大変だろうから、近いうちに一緒に飲まないか、と思って」

 闇に、希望も一緒に来て飲め、という言葉が含まれている。今に始まったことではないので、希望も笑いながら、

「利緖さんにその話をして、両方が空いている日に実家で飲む、で良いのかな」

道生に確認をする。

「そう。母さんも心配しているし。それでは利緖君によろしく伝えてな」

「承知」

「家に居るときぐらい普通に返事をしろって、何度も言っているのに、未だに出るなぁ」

 電話口で苦笑いをしているであろう道生に、

「ついさっき、利緖さんにも言われたところ。利緖さんが退職するまではずっとだから、諦めてね」

希望は釘を刺す。いや、両方が退職するまでは、「承知」という言葉が出ることを覚悟している。電話を終えると、子機を元の位置に戻し、希望はソファに座る。

「今の電話、おとうさんから?」

「うん。今度、ウチの実家で飲まないか、って」

「お舅さんも見かけによらず、お酒に強いからなぁ。だから、希望もお酒に強かったのか」

 数年前に入院してから量は控えているが、希望の鉄道員の素質と適性、酒の強さは、道生譲りだ。

「お舅さん、副区長の期間、長かったね」

 一頻り笑ったところで、利緖が思いを耽るように口にする。

「というよりは、柴崎さんが区長だった時期が長かった、だね」

「安全施策で全社的に一番大変だった時期での区長だったから、そのプレッシャーは大きかったと思うんだけど、希望はどう思った?」

「言葉に出来ないぐらい、大きかった」

 道生が区長に昇格した翌年、福知山線脱線事故と羽越線脱線事故が発生し、特に前者は人為によるもの故に、部下に対して同様の事故を起こさないように、 安全対策を徹底してきた。当然、会社側からの重圧はかなりのもので、母親の恵理から、事故発生からしばらくは、事故のことを口にすると道生に怒られた、と後に聞いている。

「家に帰っても、区長だったんだ」

「私が独身だったときも、無意識のうちに、家でも上長、が出ていたよ」

 その傾向は、希望が乗務員になってから強くなっており、「家でも上長」の気配を感じると、話す言葉も敬語になり、返事も「承知」。そして、家に居る時は普通に返事をしろ、 と言われるオチが待っているのは、先の電話の通り。

「やっぱり、身内が上長、というのはやりにくいよな」

「否定は出来ないね」

 同じ区にいる以上、公私の区別を徹底しないと、会社側も納得しないのは百も承知なのだが、職場で身内の関係を出さないことよりも、家で上長と部下の関係が出る方が、 希望にとってはやりづらかった。義理の関係の利緖も同じだっただろう。そういう意味でも、身内が助役というのも本当はやりづらい。 彼が運転士の時は「利緖指導主任」と呼んでいたが、助役になってからは、敢えて「小杉助役」と呼び、利緖に対しても公私の区別を徹底している。

「その割には、小牧君と結婚したとき、お舅さんも名前で呼んでいなかった?」

「それは、私が電車区に来てからの慣習」

 希望が大森電車区に仮配属された時点から、副区長の道生と判別するために、区長以下、区内では名前で呼ばれてきた。小牧と結婚してからも名前で呼ばれ、 若手の運転士が名字で呼ぶようになった頃に、利緖と結婚したものだから、再び名前で統一。あの宮浦でさえ、職場では希望のことを「希望指導主任」と呼んでいるのだから、 今でも名前で呼ばないと区内で混乱する。

「お父さんが区長の席を離れてもう6年になるけど、いつも私のことを心配しているよ」

「父親として?」

「それもだし、運転士としても」

 愛娘が今でも運転士を続けていることを心配している……その思いは、道生と会う度に、彼女が運転台から下りると言っていないかと聞かれることで、 利緖も常に感じているようだ。

 一方の希望は、まだ運転台から下りる気持ちはなく、指導主任の立場で運転士を続けているが、区長からはそれとなく、上に進まないかと言われており、 迷いがないと言えば嘘になる。ただ、5年前の誓いを守り抜きたい。

「5年前って……尼崎の現場に行ったとき?」

 希望は黙って頷く。福知山線脱線事故からちょうど3年経った日、私用で大阪に行った希望は、尼崎の事故現場にも足を運んだ。

 誰もが「鉄道は安全」と信じていたのに、その信用を裏切ったのは紛れもなく運転士。会社こそ違えど、運転士である間は行くことが出来ないと思っていたが、 その日に大阪に来たことは神の思し召しだと思い、亡くなった乗客の尊い命を無駄にしないためにも、事故の悲劇を一生忘れず、安全運転に命を捧げることを誓った。 普段は剥き出しのままという事故列車が衝突したマンションは、白の囲いで覆われ、見えた傷跡はほんの僅かだったが、それだけで心はきつく縛られ、今でも涙が溢れる。

「希望が他の運転士以上に、安全輸送の責務を背負っているのは見ていて分かる。だけど、その責務を背負いきれなくなって、張り詰めた糸が切れないか、時々不安になるよ」

 安全輸送という、当たり前の責務に耐えられなくなった時が、運転士、そして鉄道員を辞める時……希望はそう思っている。運転士になって今年で13年、 当たり前の責務を背負って来たが、いつかは背負いきれなくなる。区長たちが監督する側に回って欲しいと思っているのも、 「安全輸送」で張り詰めている糸が切れることで事故を起こされては困る、という意味が含まれている。

 しかし、監督する側になっても、「安全輸送」で張り詰めている糸が緩むことはない。むしろ、一つ事故が起きれば、更に糸を張り詰めていく。

「現場に残るにしても、監督する側になるにしても、最終的に決めるのは、希望自身だから、今のうちに方向を決めた方が良いと思う」

 副区長を経て、区長として管理を続けた道生、助役として監督する側の利緖の姿を見続けているから、簡単には答えが出ない。とはいえ、利緖が言う通り、 自分がどちらの道を進むかを決めるのは自分である。それを会社側がどう判断するのかは、今の時点では未知数だが、この先の道を真剣に考える時期に来ているのは間違いない。

「そういうあなたも、上に進むことを言われているんじゃない?」

「言われてはいるけど、他に向いている同僚がいると思うし、何より、希望に見えない圧力を掛けたくないから」

 自分のことは気にしなくても良いのに……希望は一度は口にしたが、

「でも、これも、あなたが公私ともに私のことを護っている証だから、その気持ち、大切に心に留めるね」

微笑みながら、利緖に想いを伝える。