文芸処・椋岡屋

HOME > 図書室 > 蒼色の笛 > 第16章

図書室

掲載日:2013年05月24日

★蒼色の笛

第16章 エピローグ~信頼を守るための絆

 ふと時計に目をやると、19時を過ぎている。希望のぞみが帰宅したのが16時前だったから、 3時間以上話し込んだことになる。

「いけない、晩ご飯を作らないと」

「慌てなくてもいいよ」

 運転士から妻になった希望は、更に主婦となる。お昼を食べたのが遅かったから、と言いながら、 利緒としおは宮浦が希望に渡したMDを手にした。

「宮浦君からのMDって、どんな曲が入っているの?」

「あれ、MDを受け取ったときに言わなかったっけ、吹奏楽コンクールの課題曲集って」

「あー、言っていたね。これって、どれぐらいの長さ?」

 MDに録音されている時間を気にするということは、どのような曲があるのか聴きたいのだろう。しかし、そのMDに収録した課題曲集はCD4枚、 それも一枚当たり65分から77分なので、今から全部聴いたところで、聴き終える頃には日が変わる前。

「1986年からの曲って、すぐに聴ける?」

「86年ならすぐに分かるから、聴けるよ。せっかくだから、私が中等部に上がった85年から流すね」

 その年からだと全部聴くようなものだが、敢えて利緒が1986年と指定したのは、彼が鉄道員になった年。その頃中学生だった希望が、 どんな曲を演奏していたのか聴いてみたい……彼が思ったことを感じ取り、希望はコンポにMDをセットして、再び利緒の隣に座る。

「このMDには入っていないんだけど、『列車で行こう』というマーチがあるのね」

 希望が口にした曲名は、2003年度の吹奏楽コンクール課題曲。当然のことながら、社内吹奏楽団はこの曲を課題曲としている。それがどういう意味を示すのか。 利緖はすぐに分かったようだ。

「僕たちは、列車運行で重要な役割を担っているから、お客さまからの信頼を裏切ることは出来ないな」

「お客さまが『列車に乗って行こう』と安心出来るよう、今まで築いてきた信頼を守るために、更なる努力を重ねることが大切だね」

 今日こんにちの鉄道輸送は、過去に起きた事故で失った尊い命と引き替えに、 安全対策を重ねる「経験工学」によって成り立ってきた。事故を起こせば、社会からの信頼を失うのは、鉄道に限らずあること。 福知山線脱線事故で失った「鉄道への信頼」を取り戻し、再び信頼を築き、守っていくことが、鉄道員である希望たちへの課題でもある。

「その信頼を守るためにも、常にパートナーシップを取り、お互いの絆をより強めていかないとな」

 利緒の言葉に希望も頷く。

「まずは、プライベートの絆だね。家庭内の不穏は、すぐに職場にも出てくるから」

「ケンカ一つでも、乗務に私情を挟むことになるからな」

 夫婦喧嘩を翌日に持ち越さないことは、一般企業の世帯でも同じだが、希望たちの場合、喧嘩した当日に職場で会うことがあるから、喧嘩をしないに越したことはない。 そのスタンスで、互いを尊重し、話し合いを重ねることで、喧嘩をすることもなく、もうすぐ9年になる結婚生活を送っている。

「プライベートの絆と、パブリックの絆。二つの絆が切れない間は、私は両方で築いた信頼を守ることが出来る」

「僕においては、最愛なる妻の希望、鉄道員の希望を一生護ることで、希望の不安を取り除く。そのことを、一生誓うよ」

「いつも私のことを護ってくれて、本当にありがとう。私もあなたのこと、一生護るね」

 希望と利緖は、変わらぬ愛と信頼を確かめ、誓いの口づけをする。

 流れる曲は、希望のお気に入りの「風紋」に変わっている。巷では鳥取砂丘の風紋にインスピレーションを得て作曲された、と言われており、 希望も鳥取砂丘に行ったことを思い出す。ついでに、ここ数年、二人で遠方へ旅行に行っていないことも。

「私が指導主任になってから、旅行らしい旅行をしていないよね」

「言われてみたらそうだ。指導主任はどこかしらフォローアップが入るし、メンタルケアも入るから、まとまった休暇を取りづらいもんなぁ」

 指導主任は他にもいるが、添乗指導がない日を狙って年休を入れないと、公休以外の連休を確保するのは難しい。

「2泊3日ぐらいで北海道に行く?」

 休みが取れるかどうかは別として、と希望は提案してみる。

「北海道だと、小樽での宿題もしないと」

「それ、私、今思い出した」

 希望と利緒の結婚記念旅行で小樽にも足を運んだが、到着時刻と滞在時間が中途半端すぎて、小樽運河のライトアップを見ず、寿司も食べず、 市街地に点在する洋館も回りきれなかったから、次に行く時には必ず一泊はしよう、これが「小樽での宿題」である。

「行くならリラの花咲く頃も良いけど、6月に結婚したのだから、当然6月で」

「月初なら、フォローアップもないから、きっと9年前と同じ展開。『周遊きっぷ』がない以外は」

 結婚記念旅行で使用する乗車券を、理解に非常に苦しむ企画乗車券「周遊きっぷ」にしたのだが、購入する際に翻弄された希望は、 周遊きっぷ発売終了のプレスリリースに、これで翻弄されることはない、と密かに喜んだ。もっとも、結婚記念旅行以外で周遊きっぷを使ったことは無かったが。

「とりあえず、6月初旬に3日か4日の休みを確保出来るように、明日には年休申請で」

「承知。さぁて、『風紋』を聴いたことだし、晩ご飯を作ろうっと。鰆を買ってきたから、野菜あんかけかな」

 希望は足取り軽くキッチンへ向かう。やっぱり「承知」が出てくる……彼女の後ろ姿を見ながら、利緒は諦めを感じながらも微笑み、次に流れる課題曲に耳を傾ける。


<了>