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★ワンマン~510行路の桜~

 端から星占いなんて信じていない。昼間の晴れ空を思うと、今日の占いが絶好調という事に、疑いの溜息をつく。もっとも、昼間行われても、 酒類は飲めないのだが……日野亮二は重い足を引きずるように、多摩川高速鉄道臨海線営業所に向かう。

 運転士養成が終わり、単独乗務になった日野は、それまで休団していた市民吹奏楽団を、四月に復帰したばかりである。復帰早々、 団員で夜桜を見に行くことになったが、あいにく、今日は泊まり勤務が入っている。花見だけで仕事を休む訳にはいかず、日野は未練を残して出勤する。

「運転士1年目で510行路の桜とは、日野もラッキーだな」

 制服に着替え、出勤点呼を受けるために当直事務室に入るなり、日野は当直助役から告げられる。

(510行路の桜って何? そんなこと、誰一人言っていないぞ?)

 疑問に思いながら、日野はアルコール検知器に息を吹く。出勤点呼を終え、掲示室で注意事項を転記する間も気になるのは、助役の言葉。一体何を意味するのだろう。 誰かに聞きたくても、土曜日の今日は出勤している同僚自体少ない。やっぱり今日は運が悪いんだ……日野は溜息をついて、当直事務室に入り、乗務前点呼を受ける。

「さっきの、510行路の桜って、何なのですか?」

 点呼を受け終えた日野は、当直助役に尋ねた。

「それは、行けば分かるよ」

 助役はにこやかに頷いて答えるのみ。

(行けば分かるって、支線のこと?)

 日野の疑問は解かれることなく、増える一方で、これからの乗務に支障が出ると、頭を振って雑念を払ったつもりだった。

 臨海線を一往復し、休憩の後、浜川崎支線の乗務に就くため、臨海線の電車に便乗する。その間、同僚に「510行路の桜」のことを聞いたが、誰一人、 真相を語る者はおらず、ただ「お前ラッキーじゃん」「今年1年幸せだな」としか言われない。「510行路の桜」を見ることで幸せになれる……らしいことは分かってきたが、 肝心な「510行路の桜」が何なのか分からない。

 臨海浜川崎駅では、前乗務の運転士、保科が日野の到着を待っていた。主任で営業所に長くいる保科なら、何か知っているだろう。日野は期待を持って、保科に尋ねる。

「保科先輩は『510行路の桜』をご存じですか?」

「それを見ると1年幸せになれるって、臨海線営業所では言い伝えられているけど、残念ながら、俺は当たったことがないんだな」

「505ではダメなんですか?」

「うん。あくまでも510」

 日野の愚問に、保科は微笑みながら答える。

「とにかく、乗れば分かるから。じゃぁ、頑張って『510行路の桜』を堪能してこい。堪能しすぎて、オーバーランや遅延するなよ」

「承知です」

 保科の見送りの言葉に、「510行路の桜」がこれから行く先にあることを薄々感じるが、前回の浜川崎支線の乗務から3日経っている。 桜の木なんてあっただろうか……日野は思いながら、運転の準備をする。

 今頃、楽団の人間は出来上がっているだろうなと思いつつ、20時19分、電車を発車させる。踏切に注意しつつ、スピードを上げて行く。 ATSの警音が臨海川崎新町駅進入を知らせ、ブレーキを掛けた瞬間、

「あーっ、桜!」

日野は自分が運転士であることを、一瞬忘れて声を上げる。人のいないホームに、照明で浮かび上がる夜桜が、日野を出迎える。一瞬の間ながらも、日野を感動させるには十分すぎた。

 感動を胸に抱いたまま、運転を続ける。夜が更けてゆくにつれて、乗客はまばらになる。同じ夜の桜でも、乗客の多い505行路では、 人工的なものが入り混じって、美しさには程遠い。それ故、保科が「堪能しすぎない様に」と釘を差したのだろう。

 誰もいないホームで静かに咲き誇る桜を見ながら、「510行路の桜」として言い伝えられる理由が分かる気がした。 美しいものに感動する心を忘れるな……そんな想いも込められているだろう。車掌がいないワンマン運転故に、時間配分も自分に裁量がある。

(15秒だけ……)

 日野は臨海川崎新町駅の発車を遅らせて、ホームの桜を眺め、終点の臨海浜川崎駅に向かう。

「やっぱり日野だよ」

 臨海浜川崎駅に到着し、ホームに降り立つと、大森電車区に転勤した枚方が妻の麻里と共に立って、日野を待ち構えていた。

「枚方先輩、なんでこんな時間に、ここにいるんですか?」

「決まっているだろ、『510行路の桜』を見に」

 驚く日野に、枚方は平然と答える。

「枚方先輩は知っていたんですか?」

「うん。俺も独り立ちした年に当たった」

「言い伝えになっている割には、皆、口が堅くありません?」

「言ったらつまらんだろうよ。内緒にしていて、圧倒させるのが慣わしだから」

 日野の問いに、枚方は笑う。日野は枚方にまでからかわれている気がしたが、来年になったら黙る自分が見えて、共に笑う。

「明日、風が強いんですって。今日が最後かも知れませんよ」

「幸せになれよ」

 麻里に続いて、枚方も声を掛ける。

「幸せになれって、俺、シングルですよっ」

 ムキになって応える日野に、枚方たちは笑う。

「今だってシングルだろ、運転士だけで」

「枚方先輩、それはワンマンって言うんです」

「もちろん、分かっているよ」

 誑かす枚方の言葉に、結局、自分はからかわれているだけなのかと、日野は思いながらも、発車時刻まで枚方たちと談笑する。

 やがて、下り最終電車の発車時刻になる。今年最後の「510行路の桜」を一人眺めに、日野は気を引き締めて、ノッチを入れる。